創立10周年記念「ジャイアント・シリーズ」は81年10月2日、後楽園ホールで開幕。
72年10月21日、町田市体育館における旗揚げ前夜祭でスタートした全日本プロレスは9周年ではありますが、興行の世界では「年目」から1年がかりでアニバーサリーツアーをやっていく手法があり、
特にこの時は新日本プロレスとの引き抜き抗争真っ只中で、同じ72年3月に旗揚げした新日本が6月から前倒しで10周年記念興行を連発していたところから、負けてはいられなかったですね。
参加外国人選手はNWA世界ヘビー級王者リック・フレアー(10月6〜9日)、インターナショナル・ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニア(10月11〜13日不参加)とテリー・ファンクのザ・ファンクス、ハーリー・レイス(10月7〜17日)、ブルーザー・ブロディ、ブルーノ・サンマルチノ(10月7〜9日)、タイガー・ジェット・シン(10月9日〜最終戦)、ミル・マスカラス(10月9〜13日)、ザ・デストロイヤー、ジミー・スヌーカ、アレックス・スミルノフ、バック・ロブレイ、ドン・デヌーチ(10月7〜9日)、マスクドX(10月7日〜最終戦)
これに上田馬之助が外国人側としてシリーズ全戦参加しました。
大物外国人が多数参戦していましたので短期間の特別参加が多いですが、10月9日、蔵前国技館のビッグマッチには全員が集結することになりました。
9月17日、カンサス州カンサスシティ・メモリアルホールでダスティ・ローデスを破り第62代NWA世界ヘビー級王者となったフレアーは78年4月のエキサイト・シリーズ以来約3年半ぶり全日本には2度目の来日。
ドリーとテリーのファンクスは4月のインター・チャンピオン・シリーズ以来5か月ぶりの来日、ドリーのシリーズ途中不参加はNWA総会出席によるもので、こちらは馬場も同様でした。
レイスは2月のエキサイト・シリーズ以来8か月ぶりの来日、前回はNWA世界ヘビー級王者としての来日でした。
ブロディは4月の第9回チャンピオン・カーニバル&インター・チャンピオン・シリーズ以来5か月ぶりの来日、前回の復活インターナショナル・ヘビー級王座決定トーナメントでは決勝に進みながらも足の負傷で無念の棄権、リベンジを期しての参戦でした。
サンマルチノは75年5月、第3回チャンピオン・カーニバル終盤戦にWWWFヘビー級王者として特別参加して以来、実に6年5か月ぶりの日本マット登場となりました。
翌76年4月、スタン・ハンセンとの一戦で首の骨を骨折、以来後遺症に悩まされ77年4月にはスーパースター・ビリー・グラハムに敗れ王座転落。
46歳で引退を決意し、来日前の10月4日にはメリーランド州ボルチモアでジョージ・スチールを相手に米国内で引退試合を行ってからの最後の日本ツアーでした。
7月に新日本プロレスから移籍したシンは3か月ぶり2度目の全日本参戦で今回はほぼフル参戦であり、豪華メンバーの中で真価が問われることになりました。
マスカラスは2シリーズ連続参戦、デストロイヤーは80年8月サマー・アクション・シリーズ2以来1年1か月ぶりの来日、スヌーカは5月のスーパー・パワー・シリーズ以来4か月ぶりの来日でした。
国際プロレスから全日本へ転じたスミルノフについては既に書いてありますので割愛致します。
ロブレイは初の全日本登場、70年2月、日本プロレスダイナミック・シリーズにフィル・ロブレイのリングネームで初来日、72年5月にもバック・ロブレイとして日本プロレスに来ていますからかなりのベテラン。交通事故に遭ってからは傷を隠す為に黄色いTシャツを着用して試合をし、プレーイング・マネージャーとして活躍していました。
デヌーチは80年7月のサマー・アクション・シリーズ以来1年2か月以来の来日で、同じイタリア系のサンマルチノとは親友の間柄、前回は同シリーズに初来日したデビット・サンマルチノのお目付け役としての来日でした。
72年10月の旗揚げシリーズにもサンマルチノと一緒に来ています。
マスクドXは正体は新日本プロレスに78年1月と79年2月にいずれもシンの推薦で来日している聾唖者レスラーのサイレント・マクニーで、今回もシンの売込による来日でした。新日本でも前座外国人の域を出ていません。
上田は73年10月以来、8年ぶりの全日本復帰となりました。
71年12月、猪木が会計士の木村昭政と共に日本プロレスの不正経理を改革し、幹部追放を企てた時に、計画を芳の里社長にリークしたのは上田でした。
結果、猪木は会社乗っ取りを犯として日本プロレスを除名追放処分となっています。
しかし上田の自伝によると最初に日本プロレス首脳部にこの計画を話したのは馬場、となっています。
以来、馬場と上田には個人的遺恨が生まれました。
73年4月、日本プロレスが崩壊、大木金太郎、上田以下日本プロレスの残党9選手は芳の里社長、力道山家の仲介で馬場の全日本プロレスと合流。
上田も6月30日、行田市民体育館でのサマー・アクション・シリーズ開幕戦から全日本に参加。
扱いは前座でマッチメークに恵まれず。
10月9日(73年)、蔵前国技館での創立1周年記念興行では、長年日本プロレスのレフェリーとして活躍した沖識名の引退興行として行われることになり、
日本プロレスのコミッショナー事務局長だった門茂男と日本プロレスの残党の一部選手の間で結成されていたジャパン・プロレスリング・ユニオンの共同開催という形で当初は話が進んでいました。
この日ザ・ファンクスの持つインターナショナル・タッグ選手権には全日本から一人、日本プロレスから一人が組んで挑戦する話も決まっており、ユニオンは手売りでチケットを売り捌いていました。
しかし、馬場が後援を仰いだ東スポはユニオンの存在を嫌悪、(事務局長だった門氏は元東スポ社員で退職時にトラブルがあったとされている。)
馬場はユニオンとの共同開催は表には出さず、インターナショナル・タッグ選手権の挑戦者チームにも新人の鶴田を抜擢し、日本プロレス側との約束を反古にしました。
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