81年創立10周年記念ジャイアント・シリーズは参加外国人レスラーに変更がありました。
全日本への移籍が発表されたハルク・ホーガンは不参加、新日本プロレスへ残留を決めています。
ホーガンの移籍交渉にあたったのはテリー・ファンクでしたが、ホーガンはテリーのオファーに対して「行く」と口約束。
返す刀で新日本の新間寿営業本部長に全日本からの条件を伝え、天秤にかけてギャラアップを要求。
ホーガンの将来性を買っていた新間は要求に応じてギャラを引き上げています。
ホーガンの裏切りに怒ったテリーが、新日本の外国人選手の常宿だった新宿・京王プラザホテルに殴り込みをかけたところ、事前に察知したホーガンは逃げたという話もあります。
ホーガンのその後のレスラー人生を考えると当時からしたたかで交渉上手な人物だったと思います。
AWAからWWFへの移籍、WWFとWCWとの往復でホーガンは巨額のギャラを手にしました。
もう一人、マットの魔術師エドワード・カーペンティアも不参加。
カーペンティアは70年7月と73年4月に国際プロレスに2度来日しています。
その後75年1月には新日本が、80年10月には国際が参加を発表していますが、いずれも直前でキャンセル。
この時はカーペンティアと親交の深いザ・デストロイヤーの口利きだっただけに今度こそは大丈夫と思われました。
しかしカーペンティアは居住していたカナダで脱税の罪により禁固刑となっていて国外に出国する事が出来なくなっており、そもそも本人が良くても最初から駄目な話でした。
全日本プロレスではホーガンとカーペンティアに代わり、ハーリー・レイス(10月7〜17日)、ドン・デヌーチ(10月7〜9日)、マスクドX(10月9日から最終戦まで)の参加を発表。
さらに追加でミル・マスカラス(10月9日〜15日)の特別参加が決まり、また、フリーで9月3日まで新日本プロレスに参加していた上田馬之助が外国人側から参加。
上田はアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本移籍で日本での職場がなくなると判断、タイガー・ジェット・シンとは全く別ルートで全日本に水面下で売込をかけていました。
新日本とのシリーズ契約が切れたタイミングで上田のマネージャーである本田治氏が全日本の大阪大会に乗り込んで馬場に挑戦状を出すというアングルが組まれました。
シンも上田も当初はザ・シークのパートナーの座を狙っていましたが、結局、馬場は知名度のあるシン、上田の凶悪コンビを全日本でも組むように2人に要求し、全日本のリングでもシン、上田組が見られることになりました。
シンと上田は「セット移籍」ではなかったのです。
9月16日、六本木の全日本プロレス事務所で馬場出席のもと記者会見が行われ、8月で崩壊した国際プロレスの所属だったマイティ井上、菅原伸義(アポロ)、米村天心、冬木弘道の入団が発表されました。
(米村は記者会見の場にはいましたが、入団はせず、後から妻女が妊娠した為、生活の基盤を早急に作るべく故郷の会津に帰りちゃんこ料理店を開業することに決めた、と語っている)
井上は猪木嫌いを公言しており、吉原社長が出席した新日本との対抗戦の記者会見にも姿を現さず、カードに名前も入っていませんでした。
井上は国際が活動停止となった時、吉原社長が新日本を選手の「再就職先」の場に決めたことに猛反発。
「今まで会社に貢献して来たのだからこれからは好きなようにやらせてもらいます。」
と新日本行きにノーの姿勢を見せて井上を慕う後輩と共に馬場を頼って全日本へ入団の道を選択しました。
9月17日、カンサス州カンサスシティ・メモリアルホールでNWA世界ヘビー級王者ダスティ・ローデスがリック・フレアーに敗れ王座転落。
これでローデスが王者として全日本にやってくることはなくなり、全日本はフレアーが王者として参戦して来ることを発表、NWA会長ジム・クロケット・ジュニアの秘蔵っ子であるフレアー時代が到来、クロケットがNWAの実権を握りました。
この流れは馬場は最初からわかっていたものと思われます。
また、全日本と新日本の両方の団体に参加が発表されていたアレックス・スミルノフは全日本が獲得。
スミルノフは若手時代の74年2月、マイク・デュボアの名前で全日本に初来日しています。
77年サンフランシスコに転戦しロシアンギミックのスミルノフに変身しチェーンデスマッチを得意とする流血ファイターとして一躍トップに躍り出ました。
同年9月、国際プロレスに来日、ラッシャー木村のライバルとしてエース外国人となり、79年7月21日には新潟・村上市民会館で木村を破ってIWA世界ヘビー級王座を獲得。
80年11月まで国際のリングに上がっていました。
国際参戦時に新日本からレンタル参戦していた上田の仲介で80年6月には新日本のサマー・ファイト・シリーズに参加が噂されましたが、ギャラをふっかけて新間に断られた経緯がありました。
新日本から見ればどうしても欲しい選手ではなかったのではないかと思われます。
9月7日、新宿・京王プラザホテルでの新日本プロレスとの対抗戦の記者会見の場に出席していた阿修羅・原は
「ヘビー級として(日本に)帰って来たのにどうしてジュニア・ヘビー級の藤波とやらなきゃいけないのか」と発表されたカードに不満をもらしました。
さらに「自分と大してキャリアの変わらない天龍が、全日本所属というだけでフレアーに挑戦出来るのはおかしい、天龍は俺とやって勝ってからフレアーに挑戦しろ」
と突如、方向転換し天龍をターゲットとし挑戦表明、これで原も新日本へは行かず、事実上全日本行きが決定しました。
結局、国際プロレスに最後まで残ったメンバーで吉原社長の指示通り新日本へ行ったのはエースのR木村、アニマル浜口、寺西勇の3人だけ。
鶴見は西ドイツ・ハノーバーへ遠征、マッハ隼人は新日本から発表タイガーマスクとのカードが敗者覆面剥ぎマッチになるのではという噂が流されて不信感を新日本に対して持ったかメキシコへ戻りました。
若松市政は10月8日の新日本の蔵前国技館でレフェリーを勤めた後は単身カナダのカルガリーに渡り、50歳を超えて内臓疾患のあったミスター珍とデビューしたばかりの秋吉豊幸は引退しています。
そんな中、新日本プロレスは9月23日、田園コロシアム大会が行われ、アンドレ・ザ・ジャイアントとスタン・ハンセンのド迫力の試合に13500人発表の超満員の大観衆が熱狂。
新間営業本部長は「これはプロレスブームではない、新日本プロレスブームだ!」と豪語、新日本は我が世の春を謳歌していました。
ログインしてコメントを確認・投稿する