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2017年10月03日03:20

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本史関ヶ原39「立花宗茂出陣の謎」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、加藤清正が九州を出ることはなかったわけですが、九州から出陣した者もいます。

●七三号一番8月20日「差出」島津惟新義弘「宛」本田(鹿児島)

○島津義弘が、鹿児島の家老に宛てた手紙。この中に「長宗我部殿は総人数二千人のご負担ですが、秀頼様へ御馳走として五千人を引き連れてこられました。近日、勢州に着陣とのこと。立花殿は千三百人のご負担のはずが、これも御馳走として四千人を引き連れてこられました。近日、こちらへ到着とのこと」の記述があります。長宗我部も立花も、戦後に領地を没収されていますから、大坂の側で参戦したのは、きっと間違いないでしょう。問題は、義弘の手紙の日付なんです。

○八月二十日。このとき義弘は岐阜県に来ていました。本文に「私も御奉行たちから指揮を任され、濃州の垂井という場所へ着陣しました」とあります。そして立花が「近日、こちらへ到着」と書いているわけです。それつまり、「立花が四千人を率いて垂井へ支援に出てくることを、誰かから聞いた」の伝聞情報なのであって、要するに立花は「まだ垂井に到着していない」ってことですよね?

○大坂から、岐阜県の垂井まで、手紙が届くのに三日としましょう。大坂城下の港から船を出して、瀬戸内海を通って大分県の港までが、早くて五日。立花の領地は福岡県の柳川なので、熊本までの距離と比べれば、少し短い程度です。陸路で手紙が届くのに三日とします。合計で十一日間。よって立花が「出陣します」と伝えた手紙は、遅くとも八月十日に発送されたはず。で、大坂が立花に「出陣してくれ」と要請したのであれば、その手紙が柳川に着くのに八日間は必要なので、前日の九日に着いているためには、二日に発送されている必要があるわけです。そして二日と言えば、「徳川との決別宣言」五三号が出された日。

●五三号8月2日「差出」長束、石田、増田、前田、毛利、宇喜多「宛」真田信之

○何度も取り上げている史料です。「真田家の大活躍」を書く軍記物語「真田軍功家伝記」が出典なのにもかかわらず、文章をよく読むと、「遠方にいる者で、会津出陣に出ていない者へ送られた」と思える手紙。「真田の犬伏の別れ」をぶち壊してしまうもの。しかも「二日の午前中」と見られる「伏見落城」が書かれているので、二日付であっても「三日の朝に発送された」としか思えないもの。五三号の同文コピーが「九州の在国大名にも送られた」と仮定しても、最短の経過日数が危ういくらいのギリギリで、立花は「すぐに出陣します」と返事をしてきたことになるのです。そうでなければ、二十日に義弘が「立花も出陣」と書けませんからね。定説では無論、七月十七日付「内府違いの条々」を各地に発送して、徳川との戦争宣言をしたことになっていますから、この問題はありませんが。

○別の問題点もあります。義弘は「長宗我部と立花が、秀頼様のために予定以上の兵数を出してきた」と書くことで、「それに比べて島津の出陣がない」と嘆いているんです。そもそも義弘が大坂にいたのは、前年の「伊集院事件」の後始末で、家康に御礼するための外交任務。大坂で戦争が勃発したから出陣してきたわけではありませんので、畿内にいた家来衆を動員したのみです。「薩摩の陣立ては、わずか千人弱で、こちらを仕切っている状況は、何度も言っていますが面目のない次第」と書いたうえ、「中書(島津豊久)は、こちらから佐土原へ報告したところ、早くも兵団を、わが陣に連れてきました。なのに出水と帖佐は、二人とも到来がなく」の文章です。ここで重要なのは「出水と帖佐は呼んだのに出てきていないが、豊久は来ている」こと。いったい「いつ呼んだ」のでしょうか?

○福岡県柳川の立花の場合、八月二日の五三号でもギリギリ。宮崎県佐土原の豊久なら、陸路を使わず、船で直行できるとしても、豊久は「行きます」と返事をしてきたのではなく、すでに到着して、義弘と合流しているようです。「手紙が届く」よりも日数がかかるはず。ちなみに「毛利と宇喜多が連名で、鹿児島の島津忠恒に出陣要請をした」とされる手紙「四九号」でも八月一日付であって、これが仮に本物だったとしても、間に合うものじゃないわけです。だとすれば「伏見城への実力行使を輝元が決断」した七月二十三日、このあたりで義弘は「きっと戦争になる」と考えて、手紙を出した可能性。もちろん義弘は「島津家の全軍出陣」を要請したのではなく、「出水と帖佐と佐土原」に連絡したのでしょう。せめて島津家の体面を保てるぐらいの兵力は欲しい、と考えたのではないでしょうか。結果「豊久は来たけど、ほかは来てない」ってわけです。手紙の届く日数と、手紙の内容とを合わせて理解する限り、そういう意味になりますし、つまり義弘も「最初に出陣要請をしたときは、いきなりの全面戦争を想定していたわけではない」ってこと。よって、この手紙もまた、定説とは違う「現実的な状況」に一致すると言えそうですが、そうするといっそう疑問になるのが「立花は秀頼様への御馳走で、負担以上の兵を出してきた」の記述なわけでして…。

○定説では「挙兵と同時に、味方になるよう呼びかけた」ですから、義弘の手紙に「長宗我部と立花」が同列に書かれていても、「四国も九州も遠いから、今ごろ出陣してきたのだろう」で済むわけです。しかし「徳島の猪山攻め」を想定すれば、おそらく長宗我部は「猪山が籠城した場合」に備えて出陣待機を命じられていたはず。そして猪山の戦場が終わったから、次に「こっちへ来てくれ」のはずなんです。よって「秀頼様のために全軍出陣」となるのも当然でしょうが、立花が呼ばれたのは「まだ戦争にもならない内」なんです。仮に七月二十三日、誰かが立花に事情を報せる手紙を出したのだとしても、義弘でさえ「最低限の兵力を求めた程度」のようですし、黒田如水は「合戦にならないだろう」と冷静に判断しています。なのに立花は「いきなりの全軍出陣」だってわけ。疑問ですね。
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