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2019年06月24日00:46

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合戦考証57「信長の戦法」島原の乱

○長篠合戦のときに、信長が「味方を一人も破損させない」と言ったという『信長公記』の記述。わざわざ信長が、こんなことを「言った」のには、深い事情があるんです。『信長公記』の著者である太田牛一は、信長の側近ではありませんので、なぜ信長が「こう言った」のか、その事情を知りません。しかし「信長様が、こうおっしゃった」のは噂で耳にしたようです。そしたら結果的に「敵は壊滅的に敗北し、味方には被害が出なかった」ので、「信長様は本当に、言ったとおりになさってしまった」と感動して、記録に残したのでしょう。とはいえ「事情を知らない」ので、どこが本当の重要ポイントなのかは「わからなかった」ようです。本当は「徳川軍が武田軍へ突撃するしか手段がなかった」ところに、信長の言った「味方を破損させないように考えるから」ってことなんですけどね。

○長篠合戦について、これ以上を述べることはしません。どうせ何を言ったところで『甫庵信長記』しか頭にない人たちには「理解できない」からです。かつて某文芸評論家が「信長の評伝」を書きまして、某文学賞を受賞しまして、そのときに「文学の経験主義」を批判するつもりか、「太田牛一は、経験しても理解してないので『信長公記』は嘘が多い。小瀬甫庵は、よく調べているので『甫庵信長記』のほうが史実である」と言いました。無論「歴史学」のほうからは、思いきり嘲笑されました。けれど『信長公記』の記述を誰も知らないも同然じゃん。

○鉄砲が普及している「長篠合戦」以降では、敵のほうから「突撃してきてくれる」のであれば、「待ち受けていればいい」はずなんです。しかし「敵もバカではない」のですから、簡単には「突撃してきてくれない」んです。ところが物語だと「敵はバカです」という作り方をしますのでね。『甫庵信長記』の今川義元は「敵地にいながら、油断して宴会をしている」し、武田勝頼は「鉄砲の威力を知らずに、騎馬突撃をしてくる」という設定です。とはいえ、これらの作り話にも、それなりの意味があるんですよ。たとえば「大手企業が有利だからって、殿様商売で油断していると、新興企業の新型技術に市場を崩される」とか、「得意分野にのみ頼って商売すると、時代の変化に対応できなくなる」とか、企業経営者の「教訓」にされるんです。この場合は「信長の物語」というより、愚かに敗けていく「敗将」の側に目を向けて「自戒する意味」で読んでいるもの。こういう読み方をするなら「娯楽の物語」にも価値が生じますので、だから「物語に向けて、嘘だの、間違いだのと批判するのは無意味」なんです。「裏へ回っての奇襲」だろうと「鉄砲三段撃ち」だろうと「物語の中では意味がある」んです。

○もちろん「歴史の理解」をする場合なら、物語は「すっぱりと捨てるべき」ですね。原城攻めでは結果的に「城への乗り込み」をしました。ただし事前に家光が「仕寄を頑丈にし、井楼をあげ、散々に鉄砲を撃ち込んで、塀の裏に敵がいられないように徹底し、全軍の足並みをそろえて乗り込め。この命令は堅く守れ」と伝えていました。無論のこと「上様の御命令」なので「当初は守っていた」細川軍。すると「三ノ丸乗り込みの時点」で言う限り、細川軍の被害は「ほとんど出なかった」わけじゃないですか。その後に二ノ丸、本丸と一気に攻め込んだがゆえに、大量の被害を出していたわけです。そして実のところ、家光の指示した方法と「ほぼ同じ内容」の記述が『信長公記』にあるんです。なのに、この方法が「世間に知られてない」わけで、まさか誰も『信長公記』を読んでないとか?

○そんなはずもないでしょうが、試しに次の文章はいかがです?「竹たばを以て仕寄り、本城塀際まで詰めよせ、填草(埋め草)をよせ築山をつき、攻められ候」

○『信長公記』巻十一にある文章です。これだけなら「竹束を抱えて、城に突撃していく」意味にも読めてしまうでしょうか。でも、その場合は「城に突撃」してから「築山を造る」意味になりかねないので、わざわざ文章を逆にして読む必要が生じます。素直に順番どおりに読んでいけば「竹束で仕寄を作って、城の塀ぎわまで距離を詰めて、仕寄と塀の隙間を埋め草で埋めて、塀の間近に築山を造り、それから攻め込む」となって、忠利の手紙に「こうする予定です」と書いてあったのと「同じ内容」になりますよね?(こういう記述は「この一ヵ所だけ」ではありませんし、こんな書き方ばかりでもないです、念のため)

○原城攻めの場合でも、最初の「総攻撃」の際は、幕府軍が「仕寄を途中で投げ出して、竹束を抱えて突撃していく」のを現にやってますから、江戸初期の大名たちであっても「仕寄の方法をきちんと理解してなかった」ことになりますし、忠利にしても「二ノ丸から先は、無防備な突撃を平気でやった」くらいです。けれども家光は「正しい方法論を知っていた」わけですよね。家光に合戦経験はありませんが、周囲には「忠興とも同世代であり、信長時代から、家康に従って合戦に出ていた老臣たち」がいるんですよ。今回の合戦に際して家光が、彼ら老臣たちから「信長の合戦を学んだ」のは明白ってもの。でなければ、家光の出していた「細かい指示」が、『信長公記』と同じになっているはずもないでしょう?

○史上最初に「仕寄戦法」をやった者が誰なのか、私も「そこまでは調べていない」ので、さすがに断言はできませんが、天正年間の信長は「こういう攻め方」をしていたのです。敵のほうが「突撃してきてくれる」なら、話は早いのですけども、敵もバカではないので、突撃してきてくれるとは限りませんから、場合によっては「こちらから攻めるしかない」こともありえます。そのときに「味方がバタバタと死ぬ」ようでは困るので、信長が「考えた方法」みたいですよ?
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