第387戦、4月23日発売号●【予想】猪木&豊登の東京プロレスが事務所開き(66年新宿区柏木町東京プロレス事務所)【正解】トーナメント1回戦が最後までシリーズ人気を牽引、第2回チャンピオン・カーニバルトーナメント1回戦、ザ・デストロイヤーvsアブドーラ・ザ・ブッチャー(74年4月24日全日本プロレス徳島市体育館)
【参考】2014年4月23日発売号は「佐山凱旋帰国」が「1シリーズ延期」になった奇跡、タイガーマスクデビュー戦vsダイナマイト・キッド(81年新日本プロレス蔵前国技館)
【予想解説】63年12月15日社長でありワンマンエースだった力道山が暴漢に刺された傷が元で腸閉塞を起こし39歳で急死。力道山死後の日本プロレスは、社長に就任した豊登を中心に、芳の里淳三、遠藤幸吉、吉村道明の4人を中心としたいわゆる「トロイカ体制」を組む形で難局の中で再スタート、豊登がエースであったものの、その豊登を凌ぐ存在として209cm、145kg、2度目のアメリカ武者修行から帰国した馬場がエースの座に肉薄していました。
65年、日本プロレスは馬場をエースの座に据え、力道山が生前保持していたインターナショナル王座を復活(ベルトは違うデザインのモノが新たに作られた)させ、馬場はデストロイヤー、アルバート・トーレス、ザ・ブッチャー(スーパー・デストロイヤーことドン・ジャーデン、アブドーラとは別人)ジ・アサシンズA(トーマス・リネストウ)ら世界の強豪を破って王座決定戦への出場資格を得て、日本代表として65年11月24日大阪府立体育会館で力道山が生前「呼びたくても売れっ子でスケジュールの調整がつかなかった」大物ヒール、「生傷男」ディック・ザ・ブルーザーと王座決定戦を行い、2本共に反則勝ちながら2−0のストレート勝ちで王座を獲得。
王座決定戦ではブルーザーに比べてひ弱な印象を受けた馬場でしたが、3日後の11月27日、蔵前国技館でのリターンマッチでは1−1から両者リングアウトの引き分けながらブルーザーから1フォールを奪い初防衛に成功、馬場が力道山の後継者として日本プロレスの真のエースの座に君臨しています。
そんな中、日本プロレスは65年11月24日に行われた役員会で、豊登の社長解任を決議して翌66年1月5日、社長辞任が正式に発表されました。
この時点では、表向きは持病だった尿管結石の悪化で辞任と発表されましたが、3月21日に正式な解任理由が後任の社長に就任していた芳の里から発表され、解任理由は「豊登の公金横領」で、65年11月から欠場していた理由は、「会社の資金を横領し、競馬、競輪などのギャンブルに流用していたことが発覚したため」で、実際には謹慎処分にしていたと公表しています。その負債額は当時の金額で2,000万円とも4,000万円ともと言われ、豊登のギャンブル依存症ぶりが浮き彫りにされています。
豊登の社長解任に伴い、馬場が28歳という若さで取締役に就任、馬場に経営責任の一役を担わせ、フリーになってアメリカに行かれない為の工作でもありました。
日本プロレスをクビにされた豊登は、力道山時代から縁のあった新宿の「寛通寺」住職の新間信雄と息子で日本橋の日本プロレス道場に通っていた新間寿父子に接触して新団体を旗揚げする意向を表明。豊登には日プロから数百万円の退職金を受け取っていましたが、ギャンブルに全て使ってしまって資金がなく、新間親子に泣きついて旗揚げ資金を工面することになりました。
豊登の新団体旗揚げ表明を受けて、日本プロレスから豊登の子飼いだったか田中忠治を初め、木村政雄、齋藤昌典、北沢幹之が退団して新団体に参加することとなり、2月に静岡県伊東市で合宿を開始し。豊登が参加メンバーとしてあてこんでいた大木金太郎、星野勘太郎、高千穂明久らは日本プロレスに留まり、また在米フリーのヒロ・マツダにも入団を断られ手薄な選手層でのスタートを余儀なくされました。
そこで豊登は、新団体の目玉として弟分的な存在であった猪木の引き抜きを画策することとなった。当時アメリカに遠征していた猪木は、日本プロレスの「第8回ワールド・リーグ戦」へ凱旋参加するためアメリカでの武者修行を打ち上げ、3月10日に猪木に連れ添っていたレフェリーの沖識名と共にロサンゼルスから馬場や吉村と合流しての合同トレーニングへ向けてハワイへ移動することとなりました。
猪木は、当時ライバルであった馬場の遠征時の日本プロレスの扱いと比べ、遠征中に日プロからは何も連絡がなく、日本では常に猪木の先を走っていた馬場の人気が沸騰していたこともあって、「俺は本当に日プロから大事にされているのか、馬場さんとの差がどんどん開いていく気がする」と自分への待遇に疑問を抱くようになっていました。猪木のハワイ到着時のマスコミの取材も少なく、しかも到着日に宿泊するホテルが予約されていなかったこもあって、日プロの対応にますます不安感を持った猪木を、豊登がハワイ入りして口説く形となりました。
吉村、馬場と合流した猪木は「吉村さん達の態度がよそよそしく感じた」と自書「燃えよ闘魂」で触れていますが、それもそのはずで吉村は日本を発つ前に「豊登が猪木を新団体に誘い入れる為にハワイに来る」という情報を入手しており、また猪木は日本プロレスの外国人ブッカーをしていたミスター・モト(チャーリー岩本)から「お前のギャラは外国人と同じ週給ドル建てで払うから」と言われ、「日本に帰るのに何でだろう?」と日本プロレスに対する不信感は増幅していきました。
吉村は猪木の豊登新団体への参加を阻止せんとし3月19日夕方のホノルル国際空港発の航空機で馬場と吉村、沖と一緒に帰国することを一度は承諾しましたが、帰国当日に豊登の宿舎だったパコダ・ホテルに呼ばれ、「寛至、お前はこのまま日本プロレスに帰ったら一生馬場のうえには行けない、俺と一緒に新しい団体を作ろう、お前がエースだ。社長にしてやる」と説得され「飛行機嫌いの豊さんがわざわざハワイまで来てくれた」と翻意。搭乗が予定されていた飛行機には乗らず、猪木は3月21日に日本プロレスに国際電話を入れて退団する事を表明、これがいわゆる「太平洋上猪木略奪事件」です。
同年4月23日に猪木の豊登と共に帰国、新団体の名称は「東京から世界へ」という意味を込めて「東京プロレス」と名付けられ、新宿区柏木町(現在の百人町)に事務所が開かれました。
猪木は外国人ブッキングルートを確保する為渡米、猪木の素質を買っていた「ミネソタの砂嵐」サニー・マイヤースが協力、猪木を筆頭に選手をある程度確保できたことで、66年8月に旗揚げ戦を蔵前国技館で開催することを発表しました。しかし、この情報を聞きつけた日プロは、豊登による新団体を短期間で崩壊させるべく妨害工作を開始し、この時は延期されました。
10月3日千代田区の神田美土代町のYMCAジムで公開練習が行われ、猪木がアントニオ・ドライバー(フロントネック・チャンスリードロップ)を初披露しています。
10月12日蔵前国技館で旗揚げ「ビッグマッチ・シリーズ」開幕戦が行われ、9,000人の観衆を動員、外国人レスラーはバレンタイン、ジョニー・パワーズ、マイヤース、ザ・ヘラキュリー(ボビー・グラハム)、ラッキー・シモノビッチが参加。
開幕戦のメインイベントは猪木vsバレンタインのシングルマッチ時間無制限1本勝負。31分56秒、猪木が場外でのアントニオ・ドライバーでリングアウト勝ち。アメリカ修行の成果をアピールする形となりました。
【正解解説】74年4月13日船橋ヘルスセンター・ローラースケート場で全日本プロレス春の祭典「第2回チャンピオン・カーニバル」が開幕しています。
全日本プロレスが「ワールド・リーグ戦」の名前を使用しなかったのは第1回大会開催時点でまだ日本プロレスが存続していたからで、リーグ戦ではなくトーナメントで覇権争いを行いました。
第1回は73年4月21日福井市体育館でジャイアント馬場がこの時初来日だった毒蛇マーク・ルーインを破って優勝していました。
先に旗揚げしたアントニオ猪木の新日本プロレスはこの74年より日本プロレスの歴史と伝統のあるワールド・リーグ戦の名称をちゃっかりと使い、第1回大会を全日本に先駆けて4月5日後楽園ホールからスタートさせていました。
第2回大会はアブドーラ・ザ・ブッチャー、前年度準優勝のルーイン、キング・イヤウケア、ミスター・レスリング(ティム・ウッズ)、ルーファス・ジョーンズ、ジョー・ソト、国際プロレスの「チャレンジ・シリーズ」に初来日、同シリーズにゲスト参戦した馬場に気に入られたセーラー・ホワイトがレンタル参戦しています。
日本側は馬場、ザ・デストロイヤー、ジャンボ鶴田、高千穂明久、サンダー杉山、サムソン・クツワダ、マティ鈴木、マシオ駒がエントリーしています。
このシリーズ話題となったのは1回戦で激突したデストロイヤーとブッチャーの「血の抗争」でした。開幕戦の船橋でノーコンテストとなり、再試合。鶴田はこの日ソトを破って2回戦に進出しています。
デストロイヤーとブッチャーの再戦は翌14日後楽園ホールで行われています。
開幕戦の船橋がテレビ生中継であり、日本陣営に加入して以来楽しいコミカルなファイトを展開、日本テレビのバラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル」にレギュラー出演、「アッコ(和田アキ子)のゴッドねえちゃん」のコーナーで一躍人気者になったデストロイヤーが、シリアスなラフファイトをブッチャーと展開する様にテレビ観戦の観客はエキサイト。
船橋のテレビ生中継の中で「明日の後楽園で両者の再戦を行う」と発表された為当日券がグーンと伸びて後楽園ホールが超満員となりました。しかし、ここでも果てしなく続く両者の場外乱闘でまたもノーコンテストで決着はつかないまま。
この日全日本プロレスの生え抜き新人第1号の大仁田厚がデビュー戦を行い佐藤昭夫(昭雄)に敗れています。
4月22日徳島・阿波池田市四国電力横広場特設リングでは全日本の生え抜き新人第2号の淵(渕)正信がデビューし、大仁田に敗れています。
4月24日徳島市体育館でデストロイヤーとブッチャーが3度目の対戦、またも荒れた展開で両者リングアウト。トーナメントですから無得点試合はなく、4度目の対戦が行われる事となりましたがPWF本部より「次同じような試合をしたら両者とも失格とする」という通告がありました。
4月27日高知県民体育館でデストロイヤーとブッチャーは4度びトーナメント1回戦で対戦するも遺恨がエスカレートしまたまたノーコンテスト。ついに両者失格が言い渡されました。
これにより、トーナメントでデストロイヤーvsブッチャー戦の勝者と対戦予定だった鶴田が不戦勝となり、トーナメント準決勝へ進出しています。
期待されたデストロイヤー、ブッチャーのいずれかとのシングルマッチは持ち越されました。
一方、前年度優勝者の馬場は1回戦をシードされ、この日の高知大会でイヤウケアにフォール勝ち。準決勝ベスト4には馬場、ルーイン、レスリング、鶴田が進出しています。
※対戦成績は387戦61勝326敗、勝率158。
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