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2025年05月02日06:24

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【特別編】前田日明のYouTubeにおける問題提起について(19)

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03年に長州力が旗揚げしたWJはジャイアント落合の死亡事故の後、さらに迷走を続けることになります。

8月21日大阪府立体育会館大会は2,800人発表と厳しい客入り、シングル王座に次いで新設されたWMGタッグ王座決定トーナメントが開催され、決勝では長州力&天龍源一郎組が越中詩郎&新崎人生組が対戦、長州がサソリ固めで人生からギブアップ勝ちを奪い、長州&天龍組が初代王者チームとなりました。

さらにコケたのが9月6日横浜文化体育館(観衆2,400人発表)で行なわれたWJ版アルティメット「X-1」。

脳梗塞の為試合が出来なくなったブライアン・ジョンストンがブッキングしてきた格闘家を集めた大会で通常のプロレス興行の不振の打開策として総合格闘技ブームにあやかって開催されたもの。

プロレスラーとしてはデビュー前であった中嶋勝彦が異例の若さでプロ格闘技デビュー。中嶋は88年3月11日生まれの当時15歳5か月、これまでの日本プロレス界のデビュー最年少といえば、69年3月13日生まれの船木優治(誠勝)が85年3月3日新日本プロレスの茨城県北茨城市総合体育館での後藤達俊戦でデビューした15歳11か月でしたが、それを半年以上更新しています。

中嶋は空手経験者でしたがあまりに即席培養、しかしジェイソン・レイを1ラウンド1分25秒、バックからのマウントパンチ連打でTKO勝ちしています。

団体のエースでもある佐々木健介も出場し、クリスチャン・ウェリッシュを1ラウンド2分35秒、フロント・ネックロックでギブアップさせました。

しかし開催前は一定の注目を集めたが、招聘した選手のレベルが低かったことや、ルールに熟知していないレフェリーの不手際などが相次いで観客からも酷評され、さらに設営していたケージ(金網)が外れてしまい、応急措置としてスタッフが手で金網を押さえて試合を続行するという失態から観客の失笑を買うなど、運営面の不手際も目立ち失敗に終わりました。

大会プロデューサーとして名を連ねていた長州は、一連の失態に憤慨する形で興行についてノーコメントのまま大会の終了を待たずに会場を後にしてしまい、運営にあたった永島勝司専務や、準備期間を与えられずにぶっつけ本番で総合の試合に出させられ負傷した健介も激怒させることになりました。

健介は支度金としてもらった500万円を団体の運転資金として貸付ており、その金銭トラブルなども積み重なって、健介側の長州に対する不信感を増幅させかつては健介と北斗晶の結婚式の媒酌人を務め、良好だった師弟関係にヒビが入り、遺恨を生じさせる一因となった。

発表された興行が中止となる事態が多発、永島は興行が中止となった原因について自著「地獄のアングル」で「会場との契約を交わさない、予約確認をしない、手付金を払わないなどフロントの不手際で試合会場が使えなくなったためだ」と書いており、いわゆる「後楽園ホールダブルブッキング事件」と呼ばれた一件です。

当初、WJは10月22日に後楽園ホール大会を開催することを発表、直後にネット上で同日同時刻に後楽園ホールでボクシングの興行が予定されていることが指摘されて、フロントが後楽園ホールに確認したところ結果的にスケジュールが押さえられておらず、急遽お詫びと中止を発表した案件でした。代替興行として首都圏でビッグマッチを行うと発表したが結局、開催されることはありませんでした

11月以降、越中と大森隆男は他団体に参戦して長州もプロレスリングZERO-ONEを主戦場にハッスルなどにも参戦していた。永島の自著「地獄のアングル」によれば所属選手に対して経営不振によるギャラの40%カットと引き換えとして、10月に契約解除(事実上はWJへ参戦しつつ他団体に上がることも可としたフリー契約)を行ったためとされています。

ZERO-ONEの橋本真也の項で稿を改めて詳しく書きますが、11月18日には長州と橋本による「コラコラ問答」が展開され、長州は12月14日ZERO-ONE両国国技館大会に出場、ZERO-ONE軍vs長州軍の対抗戦が行われ、大将戦で橋本が長州に膝十字固めからレフェリーストップ勝ちしています。

年内一杯で健介が長州らとの金銭問題のもつれなどから決裂したことで退団、フリーとして古巣新日本プロレスに参戦、長州とは遺恨が生じたまま袂を分かつことになりました。

04年1月5日後楽園ホールで、中嶋が石井智宏を相手にメインイベントでプロレスデビュー戦を行い、逆エビ固めでギブアップ負け、中嶋は15歳9か月でのプロレスデビューで、前出のX-1を除いても男子プロレス史上最年少プロレスラーとなりましたが、

3月1日後楽園ホールでの旗揚げ1周年記念興行を最後に保障上の不安から退団し、師匠筋となる健介を頼って健介ファミリー入りしました。

5月、福田政二会長が事業から撤退し、代わって代表取締役に轡田浩二が就任。興行以外での新規事業で再建を図るも頓挫して、その後も不定期に長州ら所属選手と主に矢口壹琅などのフリー選手、冬木弘道の死去により活動休止したWEWの後継プロダクションであるアパッチプロレス軍から選手が参戦する形で単独興行を開催していました。

04年8月13日、2日前に退団した石井、宇和野貴史、和田城功、保永昇男がリキプロを設立。代表はWJで広報を務めていた立石和が就任、立石氏は美人代表として人気のあった人物です。長州も参戦。

リキプロ所属選手は他団体に出場しながら自主興行を開催していましたが、05年に当時の新日本プロレス社長だったサイモン・ケリー猪木(後に離婚し猪木姓から外れる)に現場監督として呼び戻されたことで新日本プロレスに復帰。

リキプロ興行は「LOCK UP」にリニューアルして新日本プロレスのブランドの一つに組み込まれ、新日本プロレスから興行部の飯倉真人が出向してきて第1回は06年5月21日新木場1st RINGで開催しました。

リキプロは新日本プロレスに吸収される形で消滅しましたが、当時アキレス腱断裂から復帰し低迷していた真壁刀義、石井智宏を新日本プロレスのリングで輝かせた功績は大です。
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