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2024年11月05日07:17

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ストロング小林さん追悼最終章(854)

84年「ブラディ・ファイト・シリーズ」は8月24日、後楽園ホールで開幕。

ロジャー・スミス、デューク・マイヤース、トニー・セントクレアー、スコット・フェリス、ジェリー・モローの外国人選手がシリーズ全戦参加。

シリーズ序盤戦(8月24日後楽園ホール〜9月3日柏崎市スーパーこたや駐車場特設リング)にボブ・バックランド、中盤戦(9月7日福岡スポーツセンター〜12日三原市リージョンプラザ体育館)にアブドーラ・ザ・ブッチャー、同じく中盤戦(9月4日秋田県立体育館〜20日大阪府立体育会館)にグレッグ・バレンタインが特別参加しています。

当初バレンタインと同じ予定で特別参加が発表されていたハルク・ホーガンはWWFのスケジュールの都合でキャンセルされています。

また、新日本プロレス初参戦となる予定だったイワン・ストロゴフ(70年3月、73年1月国際プロレスに来日、69年5月パリで新設されたIWA世界タッグ王座決定トーナメント決勝にモンスター・ロシモフ時代のアンドレと出場し豊登、ストロング小林組に負け)も来日中止となりました。

新日本プロレスにとって痛かったのはホーガンの来日キャンセルで最終戦の9月20日、大阪で猪木との試合を実現するべく動いていたものの、ビンス・マクマホンWWF代表との交渉が不調に終わりました。

7月に猪木がMSGでの試合出場も兼ねてビンスと交渉にあたったのは既に書いた通りでしたが、猪木達がパキスタン遠征をしている間、坂口副社長が渡米してビンスと会談しており、ここでもビンスの反応は悪かったと思われます。

シリーズ全戦参加の外国人選手では常連のセントクレアー以外、初来日もしくは新日本初参戦組ばかりで、WWFカラーがかなり薄くなりました。

新日本初参戦となるRスミスは先のパキスタン遠征に続いての参加となりましたが、76年7月、国際プロレスにマスクマンのスーパー・アサシンとして1度だけ来日。

7月31日、越谷市体育館で負傷した(新日本移籍が決まった為のギミックが濃厚)上田馬之助の代打としてラッシャー木村とIWA世界ヘビー級王座決定戦(金網デスマッチ)に出場、逆エビ固めで負けていますが扱いはエース格でした。

前シリーズに参加したリック・オリバーの推薦で来日が決まりました。

初来日のベテラン、マイヤースはカナダ・カルガリーで試合をしていた中堅選手で、私は75年初頭に「月刊プロレス」のカラーグラビアでその存在を知りました。

当時はアラバマ、ミシシッピー、アーカンソーといったガルフコースト地区で活躍しており、ベビーフェイスであるケン・ルーカス(未来日)との抗争展開中で、リップ・タイラー、エディ・サリバンの流れから国際に来るかと思われましたが来日の機会はなく、この時ようやく初来日していますが、全盛期は過ぎており、来日は10年遅かったと言えました。

セントクレアーは前83年ブラディ・ファイト・シリーズ以来1年ぶりの来日。前回はテレビマッチのメインにも登場し試合ぶりも安定。

初来日のフェリスはカルガリーを主戦場にしていたマッチョマンタイプの28歳の若手でダイナマイト・キッドの推薦で来日が決まりました。

7月に新日本プロレスの顧問に就任した元国際プロレス代表、吉原功の口利きによりモロー(稲妻二郎)が新日本へ。

モローは80年にカナダ遠征に出て、現地で結婚し生活の拠点をカナダに移していましたが81年に国際の崩壊をカナダの地で聞き帰るリングを失いました。

かつての兄弟子、マイティ井上や私生活ではウマの合った鶴見五郎、カルガリー修行時代面倒を見た阿修羅・原達がいたこともあり、83年7月の全日本プロレス、「グランド・チャンピオン・カーニバルPART�掘廚縫皀蹇爾離螢鵐哀諭璽爐罵萋�。

次の83年「スーパー・パワー・シリーズ」にも連続参戦、この年84年2月の「エキサイト・シリーズ」にも全日本に来たばかりで、2月16日長崎国際体育館では初来日の黒人レスラー、トーマス・アイビーとタッグを組み、井上がチャボ・ゲレロのNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座奪取に専念する為、返上したアジア・タッグ王座決定戦を原&石川隆士組と闘い、敗れましたが「日本のお父さん」と慕っていた吉原の新日本プロレス顧問就任で新日本プロレスへと鞍替えしました。

84年ブラディ・ファイト・シリーズ前半戦特別参加のボブ・バックランドは前83年12月26日、ニューヨークMSGでアイアン・シークのキャメルクラッチにTKO負けを喫し、WWFヘビー級王座から転落してからは初めての来日。

82年8月5日、蔵前国技館にワンマッチ参戦し藤波の挑戦を回転足折り固めで退けて王座を防衛して以来、実に2年ぶりの来日となりました。

83年は1度も来日がなく、バックランドは「ビンスにスケジュールをコントロールされていた為日本に来る機会がなかった。」と来日の際にコメントしており、ビンスの扱いに対して不満があったようです。

中盤戦1週間のみの特別参加であるアブドーラ・ザ・ブッチャーは1月の新春黄金シリーズ以来9か月ぶりの来日でした。

前回は猪木とのシングル戦も組まれず、バッドニュース・アレンとの黒い軍団が仲間割れしましたが今回はアレンの来日はなく、テーマなき参戦となりました。

全日本プロレスから新日本プロレスへ行ったブッチャーと新日本プロレスから全日本プロレスへ行ったタイガー・ジェット・シンはよくどちらも駄目だった的な評価を受けがちです。シンも精彩を欠いていたのは事実でしたが、馬場はシンにはリング上のマッチメークはともかく、プロモーターとしては誠実に対応したと思います。

ブッチャーは移籍した81年は半年で1特別興行、2シリーズ9週間、翌82年は3シリーズ13週間に亘って呼ばれていますが83年は1シリーズ3週間のみ。

この年も2シリーズ5週間と一気に来日回数が目減り。

シンはそういうことはなく、81年から90年5月のスーパー・パワー・シリーズまで毎年コンスタントに呼ばれました。

90年にシンが新日本プロレスへUターン、アンドレ・ザ・ジャイアントがWWFの契約切れを機に全日本プロレス行きを希望した時は馬場社長と坂口征二社長の引き抜き防止協定により、シンとアンドレを「貸出」という名目で円満トレードしており、双方で「覚書」を交わしています。

リング外ではクレバーなビジネスマンであったシンは輪島の引き立て役や87年に全日本プロレス復帰したブッチャーのパートナーでの下の扱いをされても文句を言わずこなし、全日本で稼いだファイトマネーを貿易ビジネスに投資し成功しました。

馬場はシンに決められたギャランティをきちんと払い続けたと思います。

結果的に移籍で最も割りを食ったのは一番最初に動いたブッチャーと85年に新日本プロレスへ行ったブルーザー・ブロディの2人でしょう。(ブロディの場合は本人の素行にも問題があったかと思いますが)

グレッグ・バレンタインも当時はWWFのトップであり、82年7月のサマー・ファイト・シリーズ以来2年1か月ぶりの来日で、来日前の猪木が出場した7月23日のMSGではハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦したばかりであり、グレッグを2週間超新日本プロレスに参加させるということは、まだまだ新日本とWWFの関係は良好かと思われました。

開幕戦の8月24日、後楽園ホール(テレビ生中継)は新日本プロレス興行への売り興行。

猪木は先のパキスタン遠征で足を負傷し欠場、放送席にゲスト解説として入りました。

放送が始まるや、アメフトのプロテクターの上から白いTシャツを着用したスキー帽を被った謎のマスクマンが登場。

マネージャーには国際プロレス崩壊後カナダに渡っていたショーグン・KYワカマツが着いてマイクで何やらアピールし放送席にいた猪木を挑発。

マスクマンはリング上から人形のようなものを投げ入れると入って来た若手をショルダータックルで次々と倒していきました。

発売されていた週刊プロレスに「新日本プロレスに『キン肉マン』が登場する!?」という記事が掲載されていた為、この日何かが起こるであろうことは予想されていましたが…。

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