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2024年10月10日05:56

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ストロング小林さん追悼最終章(827)

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(前項続き)では、馬場と猪木の本当の仲とは?という話になりますが、これに関しては真相は藪の中であるが、近年は「馬場と猪木は仲が良く、両団体が対立している図式でいた方が、日本プロレス界が盛り上がるから喧嘩しているように見せかけていた。その証拠に二人があった時はいつもにこやか」というのが定説になっています。

間違いではないと思いますが、それだけでもないというのが私の考察。馬場と猪木は同日入門発表の同日デビュー、若い時一緒に力道山道場で汗を流し合宿所で苦楽を共にしてきたのは事実、そこは「二人にしか分からない感情」です。

互いに独立してからは馬場は日本テレビ、猪木はテレビ朝日の看板スターとしてプロレスというジャンルを発展させて来た関係であり、商売仇。74年に猪木は馬場に日本選手権を賭けて闘おうと再三に亘り挑発、馬場はこれを売名行為と無視しました。

翌75年は馬場がオープン選手権への参加呼びかけ、力道山13回忌追善興行を猪木vsビル・ロビンソン戦の同日にぶつけ、力道山家を取り込んで逆襲に出ています。以後、猪木は馬場戦への興味を急速に失い新たな「格闘技世界一」路線に方向転換していきます。

79年の東京スポーツ主催「プロレス夢のオールスター戦」では猪木が「ファンが望むのは馬場vs猪木戦」と何年も放っておいた馬場戦を突然口にして馬場の態度を硬化させました。まぁ、これは対立図式を煽って馬場&猪木組のBI砲復活に(vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン組)繋げる為のアングルだとは思いますが…。

試合の結末は両チームリングアウトに決まっていたところ、猪木から直前に馬場に電話があり、「シンと話をつけたから俺に(勝ちを)取らせて欲しい」と申し入れ、馬場は渋々了承せざるを得なかった、という話もあり、試合は猪木がシンの商品価値を落とさない「逆さ押さえ込み」でフォール勝ち。

試合後、猪木がマイクを持ち「馬場さん、今度同じリングに上がるのは二人が闘う時です。やりましょう!」と対戦をアピール、馬場は「よし、やろう!」と応えたものの、これは事前の取り決めのない猪木のスタンドプレーで、馬場は「やはり猪木は信用ならん」と再び態度を硬化、オールスター戦は引き抜き抗争のあった翌82年の8月26日蔵前国技館で第2回大会を開催する話がありましたが、結局は頓挫しています。

ビジネス面では敵対、テレビ局同士の意地と面子もあり、いわゆる「仲良し小好し」の間柄では到底ない。しかし、馬場も猪木も経営者として根っ子の部分にあったのは「片一方が潰れたら業界は発展していかない」、「オポジションのない業界に未来はない」という部分は共通していたと思われ、その部分に関しては「自分たち以外の他者に好きなようにはさせない」という「最後の一線」を守るところでは繫がっていたのではないでしょうか。

「仲がいい」というのはお互い大人で人前で会えば、猪木の方から挨拶に行くなど馬場を立てて、人のいるところでは仕事の話は絶対にしなかったということだと思います。

引き抜き抗争を持ちかけたのはやはり猪木でしょう。日本テレビ、テレビ朝日にももちろん内緒、猪木は坂口征二、新間寿にも話さず、馬場は元子にだけは話していたんじゃないでしょうか?

きっかけはおそらく梶原一騎がユセフ・トルコを伴いブッチャーを訪ねた80年12月11日全日本プロレスの蔵前国技館。梶原はブッチャーを引き抜いて新日本プロレスに移籍させ、トレードマネーをピンハネしようと目論んだ。

梶原は新間に「ブッチャーが取れ(移籍)そうだ」と伝え、それを新間から聞かされた猪木が「どうせやるならブッチャーだけじゃなく、向こう(全日本プロレス)と(取り合い)だ。その方が面白ぇじゃねぇかンムフフフフフ」。

馬場も日頃観客動員や視聴率で日本テレビから色々嫌味を言われていたでしょうから渡りに舟とばかり話に乗り、憎き日テレ上層部から金を引き出そうとの原章プロデューサーを巻き込んで資金支援を依頼、日本テレビも老舗の面子がありテレビ朝日に負ける訳にはいかず軍資金を作りました。

ブッチャーとシンはトレード要員、それ以外はフリートレード、ただし新日本プロレスのアンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、全日本プロレスのザ・ファンクス、ハーリー・レイス、ブルーザー・ブロディあたりには手を出さない暗黙のルールは敷かれていたかと思いますが馬場がホーガンに手を出したことで暗黙のルールは破られました。

ダスティ・ローデスもNWA世界ヘビー級王者の年間スケジュールを馬場が知らない訳もなく、NWA世界王者が来日する10月にはリック・フレアーに移動することは承知の上で発表したものでしょう。

しかし、馬場にとってはホーガンはカムフラージュに過ぎず、シンと同時期の6月に大本命ハンセンを口説き落していた。ハンセン曰く「断ることなど到底出来ない額」を提示されたとのことです。

ハンセンは馬場に「ニュージャパンとの契約が年内一杯残っている」と言うと馬場は「契約を消化してから来てくれ」と。年末の逆転勝利を印象づける為に敢えて年末投入を狙っていたフシがあります。

ハンセンに関しては馬場の騙し討ちであり、猪木も「やられた!」と言った感じで、新間が激怒して馬場に「馬場さん、酷いじゃないですか!」と電話で抗議、馬場はすっとぼけて「いやいや、何言ってんだよ、引き抜き戦争だぞ、やるって言っただろ(笑)」と電話口で舌を出していたのでは?

馬場は試合前に練習よりポーカーや麻雀に講じている時間が長く、ギャンブルには強く猪木よりは悪知恵に長けているのは間違いないと思います。

猪木はショックを受けたものの「まぁ、しょうがねぇや」と受け入れざるを得なかった。なぜなら自分も散々馬場に騙し討ちをしていたので強く出られるはずがない。

82年2月に馬場、猪木、新間の3人が会合を開いて新日本プロレス側から引き抜き抗争停止を申し入れ、仕掛けた新日本プロレスが白旗を上げてギブアップしました。

これに凝りた新日本プロレスは外国人頼りの興行のあり方から脱却、翌82年にはメキシコ遠征から帰国した長州力、メキシコ、アメリカ武者修行から帰国した小林邦昭をそれぞれ藤波辰巳、タイガーマスクに噛みつかせることで日本人同士の軍団抗争を主軸としたマッチメークにシフトしていくことになります。
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