第316戦、11月22日発売号●【予想】興行中止で観客が暴動、板橋事件!(66年11月21日東京プロレス元都電板橋駅前広場)【正解】大減量断行! ジャンボ鶴田一度きりのジュニア王座挑戦、馬場&鶴田組vsパット・オコーナー&ケン・マンテル組(74年全日本プロレス後楽園ホール)
【参考】2017年11月22日発売号は大学紛争の影響でテレビ生中継がスタジオ収録!!日本プロレスNWAチャンピオン・シリーズ第3戦(68年日本プロレス千代田区二番町日本テレビ第10スタジオ)
2017年11月22日発売号、第11戦の予想●たった一度きりの超獣対決、世界最強タッグ決定リーグ戦公式戦、スタン・ハンセン&テリー・ゴディ組vsブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組(87年全日本プロレス後楽園ホール)※対戦成績は11戦3勝8敗、勝率273。
【予想解説】猪木、豊登による新団体、東京プロレスば66年10月12日、蔵前国技館にて旗揚げ戦が行われ、9,000人(満員)の観衆を集めました。猪木vsジョニー・バレンタインとのシングルマッチ時間無制限1本勝負がメインイベントとして行なわれ、31分56秒、猪木がリングアウトで勝利。アメリカ修行の成果をアピールする形となりました。
華々しいスタートとは裏腹に、有力な興行基盤を持たない東京プロレスは早々に経営が悪化する形となりました。東京プロレスの旗揚げと同時に設立された同団体専門の興行会社「オリエント・プロモーション」への売り興行をを中心を行っていましたが、これは日本プロレスが「東京プロレスの興行を買ったプロモーターには2度とウチの興行は売らない」と圧力をかけていた為、新興プロモーションに頼らざるを得なくなっていました。
地方での営業面で日本プロレスに妨害され、全34戦を予定していた東北地方を中心とした旗揚げシリーズはキャンセルが相次ぎ、全20戦のみが行われる形となりました。テレビ局とも契約出来ず、当初、経営陣は大阪キー局である毎日放送にテレビ中継の話を持ち込み、現場・編成サイドでは一旦合意したが、当時の社長だった高橋信三の反対により立ち消えになったといいます。
このような最悪の経営状況の中でも豊登は、相変わらず資金を横領の上でギャンブルに私的流用しており、東京プロレスリング興業は事実上豊登の個人会社状態となっていたと言われる。猪木の発言によるとこの時点で「ギャンブルによる借金は5,000万円近くあり、事実上東京プロレスの負債に回された」と証言しています。
東京プロレスでデビューした永源遙も「公務員が月給20,000円を越えていた時代に、年俸は10,000円だった」と後に述懐しています。旗揚げ後は選手の合宿所も設置されたものの、食費は会社持ちであったがちゃんこ代にも窮していたと言われ、興行成績の不振、豊登による公金の私的流用も相まって資金繰りが苦しくなる悪いムードの中、東京プロレスにとって致命的ともいえる事件が発生しました。それが「板橋事件」です。
東北での旗揚げシリーズが惨敗に終わった中、帰京して行われた10月26日の板橋区志村高校脇広場特設リングでは4,000人の観客を動員しましたが、その僅か1か月後の11月21日、同じ板橋区内の元都電板橋駅前広場大会を入れました。
これは、前回の板橋大会がそこそこ観客を集めたことで累積赤字の補填が出来たことで、やはり都内は客が集まる、と安易に興行日程に組み入れたものでした。しかし冬の寒い11月となる野外の試合であり、1か月前に板橋で興行を開催したばかりで当日券が全然伸びず。
試合開始前に、突然大会の中止が集まった観客に告げられ、長く待たされた挙句に何の説明も無く、突然の中止を告げられたことで観衆は激怒し、リングを破壊した上に放火をする事態に。この暴動を収拾するために、警官隊が多数動員されて鎮圧する事態ともなりました。
同年11月23日付(22日発行)の「東京スポーツ」では1面と中面で大騒動の顛末を報じています。以下、抜粋して引用。
「寒波に震えた11月21日夜、東京・板橋の元都電板橋駅前で行われる予定だった東京プロレスビッグマッチ第20戦城北大会は2時間以上も観客を待ちぼうけさせて中止。興奮した観客が暴れてリングを壊し、警視庁が機動隊百数十人を動員して騒ぎを収めるプロレス史上前例のない事件に発展した。寒さをものともせず毛布や座布団を持って詰めかけた2,000人のファンを激怒させたのは主催者(オリエント・プロダクション、原文ママ)の誠意のなさだった。
試合開始時刻の午後6時30分になっても選手は誰1人姿を見せず、主催者側は「道路が混雑している。もう少しお待ちください」と試合を引き延ばしていた。しかし実際はその間に東京プロレスと主催者側で「試合をやってくれ」「やらない」の問答が繰り返されていたのだ。東プロの豊登会長によると、オリエント社は今までの興行不振から、ファイトマネーの未払約500万円がたまっており、21日にこのうちの100万円、板橋大会のファイトマネーの内金100あ万円の合計200万円を支払う約束になっていたが、その金が支払われなかったために東プロ側が一方的に試合を止めてしまった、というのが“中止の真相”である」
この不祥事は一般紙の社会面にも掲載されたことで、東京プロレスは社会的信用を失墜する形となりました。
【正解解説】74年全日本プロレスの掉尾を飾る「NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」は11月22日、後楽園ホールで開幕。後半戦特別参加がNWA世界ヘビー級王者ジャック・ブリスコ、前半戦特別参加がパット・オコーナー、シリーズフル参戦がNWA世界ジュニア・ヘビー級王者ケン・マンテル、ディック・マードック(腰の負傷により途中帰国)クリス・マルコフ、グレート・スヌーカ(ジミー)、ボビー・ホワイトロックの外国人レスラーが参加。
このシリーズは「NWA世界2階級王者の同時招聘」が看板で、過去69年11月、日本プロレスでヘビー級のドリー・ファンク・ジュニア、ジュニア・ヘビー級のダニー・ホッジを同時に呼んだことはありましたが、日本プロレスにはジュニアの人材がいなかったことと、前68年1月24日、国際プロレスの台東体育館でルー・テーズを破りTWWA世界ヘビー級王座を獲得、さらにこの年の1月に日本プロレスに初参戦、ウィルバー・スナイダーと組んで、馬場&猪木組を破り、インターナショナル・タッグ王座を獲得しているホッジをジュニア扱いはしませんでした。
当時の全日本プロレスにもジュニア・ヘビー級の人材がいた訳でもなく、当時115kg公式発表で、上半身がほっそりしていた鶴田を、NWAのジュニア・ヘビー級のリミットだった105kgまでに無理矢理減量させて挑戦させようと計画。
NWA世界ジュニアの「絶対王者」だったホッジを1973年12月19日、ミシシッピー州ジャクソンビルで破ったのは当時31歳、新進気鋭のKマンテル。71年8月、日本プロレスにケン・ルスクのリングネームで来日しているアマレスがバックボーンの強者です。Kマンテルの王座に鶴田が挑むことになりました。
この74年「NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」は12月2日、鹿児島県立体育館で馬場がブリスコを破り、「師匠である力道山さえ成し得なかった」日本人初の第49代NWA世界ヘビー級王者になった全日本プロレスにとっては記念すべきシリーズとなりましたが、その勝敗如何に関わらず、3日後の12月5日には、日大講堂でブリスコvs馬場のNWA世界ヘビー級、PWFヘビー級ダブル・タイトルマッチの開催が決まっており、Kマンテルと鶴田のNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権試合も同日行われることになりました。
日大講堂大会の1週間後の12月12日には新日本プロレスが蔵前国技館で猪木vsストロング小林のNWF世界ヘビー級選手権試合の再戦、3月19日、同所での第1戦で日本中のプロレスファンを熱狂させた試合が開催されることが決定しており、3月にS小林、10月10日には大木金太郎を撃破し、馬場との「日本選手権」を迫る猪木の人気が圧倒的に上回っていました。
馬場は「世界最高峰」のNWAを取って見せ、「何が日本選手権だ、こちらは世界王者だ。猪木とは、世界マット界における立ち位置が違うんだ!」というのを見せつけた訳です。さらに「日本初のNWA世界2階級タイトルマッチ同時開催」にこだわりました。
「猪木には逆立ちしたってこんなマッチメイク、出来っこない」というプロモーターとしての格の違いを強調したかったのでしょう。
日大講堂大会は馬場のNWA世界ヘビー級、PWFヘビー級の二冠王座にに丸腰のブリスコが挑戦、2−1で馬場が返り討ちにし、NWA世界王座を初、PWF22度目の防衛に成功。
105kgまで減量した鶴田はKマンテルと1−1から両者リングアウトの引き分けで王座奪取成らず。
本稿はタイトルマッチ本番でなく11月22日、後楽園ホールでの開幕戦、馬場&鶴田組vsオコーナー&Kマンテル組の方を採り上げ。1本目は14分47秒、オコーナーが鶴田を揺り椅子固め(グランド・コブラツイストからのフォール勝ち、ローリング・クレイドルではない)、2本目は6分1秒、馬場がオコーナーをネックブリーカー・ドロップから体固め。
決勝の3本目は5分3秒、鶴田がKマンテルのセカンドロープからの振り向きざまのダイビング・ボディアタックを自爆させ、ジャンプしてのボディプレスを決めて体固め、王者Kマンテルから決勝フォールを奪っています。
※対戦成績は316戦55勝261敗、勝率174。
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