第181戦、4月21日発売号●【予想】猪木vs坂口征二黄金コンビ、3年ぶりのシングルマッチ(78年新日本プロレス蔵前国技館)【正解】ポール・オーンドーフにとってトラウマとなった前田明戦(83年新日本プロレス蔵前国技館)
【予想解説】新日本プロレスの誇る二枚看板、猪木と坂口の「黄金コンビ」。猪木が新日本プロレスを設立した72年当初、一部スポーツ紙に「日プロは潰れる」「坂口なんか片手で3分でやっつける」と猪木が挑発、坂口がこれに反応して「ふざけちゃいけない。自分だって少なくとも全日本の柔道チャンピオンだ。片手で3分とは何事だ。だったら俺なら1分でぶっ倒してやる」と反論しており、過去の因縁はありましたが、前回の本連載(15)で書いたように、73年4月、日本プロレスを離脱した坂口は猪木と合流し新日本プロレスに入団しました。
ノーテレビで1年間活動し、資金繰りが逼迫していた新日本プロレスは後数か月で倒産か、と言われる程の危機にありましたが、坂口の加入でNETの放送も付き、息を吹き返した訳です。
手薄だった新日本プロレスの日本人メンバーでしたが、豊登は抜けたものの、坂口、小沢正志(キラー・カーン)、木村聖裔(たかし、健吾、健悟)、大城勤(大五郎)が加入、10月には永源遙が入団、翌74年1月には星野勘太郎が入団し陣容も揃いました。
日本人メンバーが充実してきたことで74年4月には春の本場所「ワールド・リーグ戦」を開催。日本プロレス時代同様の日本人対外国人の対抗戦を予選リーグで行いつつ、決勝リーグ戦は総当たりリーグ戦が採用され、日本人同門対決も行われることになりました。
猪木と坂口の初対決は4月26日、広島県立体育館で実現、互角の攻防となり30分時間切れ引き分け。
5月8日、東京体育館での優勝決定戦は猪木、坂口、キラー・カール・クラップの3人が5.5点の同点で並び、3人による巴戦で行われました。
第1試合の坂口vsクラップは12分46秒、坂口の反則勝ち、続いて行われた第2試合の猪木vs坂口の再戦ですが、試合中にクラップとジ・インベーダー(ビル・ドロモ)が乱入、坂口に襲かかり、場外で坂口の額を鉄柱で攻撃して大流血させて、15分42秒、坂口のドクターストップ負けの裁定が下り、坂口は無念の棄権となっています。
坂口の棄権により、第3試合の猪木vsクラップが優勝決定戦となり、7分16秒、猪木が弓矢固め(ボーアンドアロー・バックブリーカー)でクラップをギブアップさせて優勝。坂口にとっては悔しいリタイア。
翌75年の「第2回ワールド・リーグ戦」は最初から参加全16選手による総当たりリーグ戦を採用、猪木vs坂口戦は優勝決定戦の前日、5月15日、大阪府立体育会館で組まれ、坂口のアトミック・ドロップを空中で1回転した猪木がバックに回り込み、後方回転エビ固めで23分48秒にフォール勝ち。初めてまともな勝敗がつきました。
翌日の5月16日、日大講堂での優勝決定戦では1位が13.5点のクラップ、2位には12.5点で猪木、坂口、ストロング小林、大木金太郎の4人が並び、2位の4選手で決勝進出者決定トーナメントを行い、勝ち上がった選手がクラップと優勝決定戦を行なうと言うもので、2位の選手が優勝しようと思えば最高で1日3試合を闘わないといけない過酷なものでした。
決勝進出者決定トーナメントの組合せは抽選で決められ、第1試合は猪木がS小林を20分22秒、グラウンド卍固めで3カウント奪ってのフォール勝ち。
第2試合は日本プロレス崩壊時の怨念対決となる坂口と大木の一戦で、公式戦では4月25日、福山市体育館で14分41秒にノーコンテスト、本来なら両者無得点試合となるところ、この対戦の為にマスコミ有識者により結成された「試合監視委員会」の裁定で異例の再試合が決定。5月9日、高松市民文化センターでの再戦では錯乱した大木が場外を徘徊し、13分59秒、大木のリングアウト負けとなっています。
3度目の対戦は決勝進出が賭かった大一番でしたが、試合開始のゴング前に大木が坂口を襲い大荒れの展開となり2分23秒に両者リングアウト、試合監視委員会は「これはプロレスではない、喧嘩だ」と両者失格を言い渡しました。
これにより、第1試合に勝った猪木が優勝決定戦進出となり、16分42秒、クラップをグラウンド卍固めでギブアップさせて2年連続優勝。坂口は2年連続、不本意な終わり方で涙をのんだことになりました。
翌76年の第3回、77年の第4回は猪木はシード参加で優勝決定戦に出場となっていましたが結果的に辞退となり、坂口は第3回はペドロ・モラレス、第4回はマスクド・スーパースターを破って2年連続優勝を果たしましたが、猪木との一騎討ちは実現せぬまま。
76年7月26日、「アジア・リーグ戦」長崎国際体育館でタッグ部門の決勝リーグ戦で猪木&木戸修組と坂口&S小林組が組まれていますが、写真はなく、唯一「別冊ゴング」76年9月号本文に試合レポートが少しだけ載り、1本目は11分20秒、坂口が木戸を体固め、2本目開始までのインターバルにタイガー・ジェット・シンが乱入して猪木を襲い、戦闘不能にして猪木が試合放棄、坂口&S小林組が2−0でストレート勝ちしているとのことで、不完全燃焼の試合になりました。
78年、新日本プロレスとWWWFの提携強化により「ワールド・リーグ戦」に代わる春の本場所として第1回大会が開催された「MSGシリーズ」の予選トーナメント1回戦で、坂口の強い要望により両雄のシングルマッチが実現しました。
猪木vs坂口の3年ぶりの公式戦は30分時間切れ引き分け、再試合の10分も時間切れとなり、後日再戦かと思いきや猪木がマイクを持って、「坂口、無制限でやろう!」とアピール、坂口もこれに応えて時間無制限1本勝負で再々試合が実現。
場外に落ちた坂口に猪木がコーナーポスト最上段から3mはあろうかと言うリング下の坂口めがけフライング・ニードロップ。猪木は素早くリングに上がり、再々試合は1分12秒、リングアウトで猪木の勝利に終わりました。
合計41分12秒、猪木が坂口との3年ぶりの対決を制して2回戦に進出しています。
【正解解説】193cmの長身、空手経験者で大阪で数多くの武勇伝を誇る前田明(日明)は78年8月25日、長岡市厚生会館(現アオーレ長岡)での山本小鉄戦でデビュー、5分42秒、体固めで敗れていますが、早くから次代の新日本プロレスを担うエース候補として将来を期待されていました。
82年の「新春黄金シリーズ」終了後、ヨーロッパヘ武者修行に出発。イギリスでサミー・リー(佐山聡)の弟、「クイック・キック・リー」のリングネームで活躍。
83年1月25日にはロンドンのロイヤルアルバートホールでウェイン・ブリッジを破りヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得しています。
前田は83年4月に凱旋帰国、「ビッグ・ファイト・シリーズ第2弾」の4月15日、福山市体育館のテレビ生中継でスーツ姿で観客に挨拶、トレーナーとしてカール・ゴッチも来日しました。
新日本プロレス道場で「12種類のスープレックス」を披露、ジャーマン、フルネルソン(ドラゴン)、スロイダー、ハーフハッチ、リバースアームソルト、ウンターグルフ、ダブルリストアームソルト等々。
前田の凱旋マッチは4月21日、蔵前国技館。相手は強豪オーンドーフ。80年10月、新日本プロレスの「闘魂シリーズ」にフロリダのヒロ・マツダのルートで初来日。タイガー・ジェット・シン、ハルク・ホーガンに次ぐ3番手の扱いで、10月10日、開幕戦の後楽園ホールではセミファイナルで藤波辰巳にリングアウト勝ちし日本のファンに「オーンドーフ強し」を印象付けました。
翌週の10月17日、大和市車体工業体育館では長州力にフォール勝ち、10月30日、熊本市体育館ではメインイベントで猪木とシングルマッチで対戦、7分54秒、卍固めでギブアップ負けしましたが、上々の成績で帰国しています。
帰国後は来日前の主戦場であったオクラホマ、ルイジアナといったNWAトライステート地区の後継プロモーションであるビル・ワット主宰のMSWAで活躍、81年7月4日、ジェイク・ロバーツからミッドサウス北米ヘビー級王座を獲得。以降も同王座を巡り、テッド・デビアス、ディック・マードック、マイク・ジョージ、ボブ・ループらと抗争を展開。
翌82年からはジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに進出。バズ・ソイヤー、スーパー・デストロイヤー(スコット・アーウィン)、マスクド・スーパースター、トミー・リッチらを破り、同地区認定のナショナル・ヘビー級王座を4回に渡って獲得するなど、次期NWA世界ヘビー級王者の有力候補の1人に挙げられ、当時の王者、リック・フレアーにも何度も挑戦状している実力者で、弱くない訳がないです。
この時の2度目の来日では、日本人選手同士の軍団抗争が主軸となっていた新日本プロレスマットですが、外国人レスラーのエース格として来日、4月15日の福山では、4月3日、蔵前国技館で藤波を破ってWWFインターナショナル・ヘビー級王者になっていた長州とシングルで対戦し両者リングアウト。
しかし、前田との試合では、オーンドーフは前田のフライング・ニールキックに背を向けて背中で受け、リバースアームソルト(風車固め)で僅か3分26秒、オーンドーフがギブアップの意思表示をしたとして前田があっさり勝ってしまいました。
試合後、オーンドーフは前田のキックとスープレックスに対して外国人係のミスター高橋レフェリークレームを入れています。オーンドーフはこの83年は7月の「サマー・ファイト・シリーズ」、10月の「闘魂シリーズ」と計3回来日していますが、この日の前田戦で商品価値を落とされ、新日本プロレスへの来日はこの年が最後。
帰国後年末にWWFと契約、84年からのビンス・マクマホンによる全米制圧でヒールとしてホーガンのライバルとなり、世界的なスーパスターとなりました。
流さんのコラムでは、オーンドーフがWWFからリリースされた直後、93年4月10日、UWFインターナショナル大阪府立体育会館大会に参戦させるべく、ルー・テーズのラインで流さんが折衝にあたっていましたが相手がゲーリー・オブライトに決まったことから、危険なスープレックスで投げられ、首を怪我させられたりすることを懸念しキャンセルされたものと書かれています。
確かに、当日イケイケだったUインターは、マッチメーカーだった宮戸優光が新日本プロレス、リングスに対する当てつけとしてオーンドーフがオブライトのぶっこ抜きジャーマンやフルネルソン・スープレックスで投げられ、短時間でKO負けで潰してしまう可能性が高かっただけにこのオファーは受けずに正解だったと思います。
※対戦成績は182戦36勝146敗、勝率198。
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