77年新日本プロレス「新春黄金シリーズ」最終戦、2月10日、日本武道館大会メインイベント以外の模様です。
セミファイナルは坂口征二と上田馬之助のシングルマッチ60分1本勝負。2月2日、大阪府立体育会館でタイガー・ジェット・シンとの凶悪コンビで坂口&ストロング小林組の北米タッグ王座に挑戦し、S小林の痛めていた左腕を集中攻撃、脱臼に追い込んで王座を強奪した上田に対し、坂口が制裁を宣言して実現したこのシングルマッチは、ある意味メインの猪木vsシンのNWFヘビー級選手権試合より注目を集めました。
坂口と上田は日本プロレスの先輩後輩であり、60年大相撲の間垣部屋から入門の上田(実際には馬場、猪木より前に一度日本プロレスに入門したが逃げ出し、再入門している。この為馬場、猪木より後輩になってしまったことがその後の上田のレスラー人生に大きく影響を与えることになってしまう)が67年、「元柔道日本一」として鳴り物入りでデビューした坂口の7年先輩にあたります。
日本プロレス界71年の歴史において、真の意味で「幹部候補生」として最初から次代のエースとしてプロレス転向を果たした日本人プロレスラーと呼べるのは坂口、ジャンボ鶴田の2人だけだと私は思います。
猪木、馬場が相次いで日本プロレスを離れた72年以降、2人は日本プロレスに残り団体を守っていましたが、坂口が73年3月に新日本プロレスに移籍、NETが日本プロレスを見放し、新日本プロレスの放送を開始したことで日本プロレスは力尽き、4月には活動を休止。
75年4〜5月の「第2回ワールド・リーグ戦」で遺恨試合を展開した坂口と大木金太郎と同じような感情的なしこりが坂口と上田にもあったと思われます。
上田ら日本プロレスの残党達9人は力道山家(百田家)の仲介により馬場の全日本プロレスヘ移籍も処遇の悪さで上田は10月には全日本プロレスを去り、フリーとして渡米、全日本プロレス、日本テレビと3年契約を結んでいた上田は契約が切れる年の76年1月に全日本プロレスの馬場、新日本プロレスの猪木、国際プロレスのラッシャー木村に「日本選手権をやろう!」と挑戦状を送付し、国際プロレスの吉原功社長がこれに食いついて5月23日、後楽園ホールで開幕の「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」に外国人ヒールサイドとして2年7か月ぶりに日本マットに登場。
前頭部を金髪に染めた「まだら狼」としてヒールファイトを展開、日本プロレス時代の地味な中堅レスラーのイメージを一新する大暴れ。6月11日、茨城県古河市立体育館では16分35秒、体固めでR木村を破り、団体の看板タイトルであるIWA世界ヘビー級王座を獲得。
次の7月4日、後楽園ホールで開幕の「ビッグ・サマー・シリーズ」にも王者として継続参戦しましたが、モハメド・アリ戦が終わり、次の興行の目玉を探していた新日本プロレスとシリーズオフにエージェントを介して交渉を開始。「ビッグ・サマー・シリーズ」が終わったら新日本プロレスにジャンプすることを決めていました。
7月28日、千葉県銚子市体育館でのR木村との初の日本人同士の金網デスマッチによるIWA世界ヘビー級王座初防衛戦は、両者金網の外に出て乱闘となり17分48秒、没収試合に。上田のタイトルも没収されました。
7月31日、埼玉県越谷市体育館で予定されていた王座決定戦は上田は負傷を理由に棄権、代打にスーパー・アサシン(ロジャー・スミス)を指名しR木村はアサシンを降して王座返り咲き。上田は新日本プロレスに行くにあたり、自分の商品価値が落ちないように間接的にR木村にベルトを返して国際プロレスを出て行きましたが、新日本プロレスは上田の「IWA世界ヘビー級王座ベルト」を持ったままでの新日本プロレス移籍を本気で目論んでいたと考えられます。
新日本プロレス8月5日、蔵前国技館大会に私服姿で乱入した上田はメインイベントの猪木とシンのNWF世界ヘビー級選手権試合終了後リングに上がり、手に持っていた「挑戦状」で猪木の顔をピシャピシャ叩いて挑発。
この日当初発表されていたストロング小林とのシングルマッチは上田が「猪木戦以外には興味ない」と対戦を拒否して流れていますが、実際は試合をしたら負傷が嘘であることがバレてしまうからという理由でしょう。
猪木は上田に襲かかり、着ていたスーツはビリビリに破かれましたが、シン戦で脇腹を痛めていた猪木は劣勢になりました。
その後10月6日、大阪府立体育会館、10月7日、蔵前国技館と乱入を繰り返したものの上田の猪木挑戦は実現せず、年が明けて77年に入り、上田はまさかのシンとのタッグチーム結成という形で新日本プロレスのリングにサプライズ登場、新日本プロレスは上田を76年一杯「寝かせて」いたことになります。
「今日は上田が坂口にやられるところを見たい」日本武道館にあつまった11,500人の大観衆の期待はそこにありました。しかし、試合は期待を大きく裏切る結末に…。
坂口の気迫に押された上田はジャンピング・ニーアタックを喰らって場外転落。そのまま場外フェンスを超えて控室へと逃走してしまいました。試合時間は僅か3分24秒、これでは場外フェンスを設置した意味が全くなく、観客のフラストレーションは一気に高まりました。この状態でメインイベントの猪木vsシンに繋いだ訳です。
S小林の欠場により、セミ前は星野勘太郎&木戸修組とスタン・ハンセン&ピート・ロバーツ組のタッグマッチ45分3本勝負が行われています。1本目は8分44秒、ハンセンが木戸を体固め、2本目は3分16秒、星野がPロバーツを体固め、決勝の3本目は2分9秒、ハンセンが星野を体固めに決めて、ハンセンが1人で星野&木戸から2フォールを奪ってハンセン&Pロバーツ組が最終戦を白星で飾りました。
ブルータス・ムルンバは永源遙とシングルマッチで対戦し6分8秒、体固めでフォール負け。この日の試合を見る限り、次の来日はないと思われましたが、これより3年9か月後の80年11月、国際プロレスの「デビリッシュ・ファイト・シリーズ」に「グレート・ムルンバ」のリングネームで3度目の来日を果たすことになります。
この日の第1試合でジョージ高野(当時18歳)が佐山サトルを相手にデビュー戦を行っています。私はこの日が7回目の会場生観戦でしたが、「デビュー戦」を見たのはこれが初でした。
G高野は本名高野讓二、58年6月23日福岡県北九州市出身、岩国基地に勤務していた在日米軍の黒人の父親と日本人の母親の間に生まれたハーフ。中学校を卒業後、大相撲の大鵬部屋に入門しましたが相撲界に馴染まず76年に新日本プロレスに入門。
褐色の肌に見るからに強靭なバネを秘めた体躯、188cmの長身に甘いマスク、今で言うイケメンで猪木も将来のスターとして期待、デビュー前からセコンドにつける抜擢をしていました。
先輩佐山との一戦は後の「タイガーマスクvsザ・コブラ」となりますが、佐山相手にG高野は15分時間切れ引き分けという上出来のデビュー戦を飾りました。この試合は柴田勝久のレフェリーデビューの試合でもあった訳です。
全日本プロレスとの興行戦争ですが、年を跨いで1か月以上の間隔がありますが、福岡九電記念体育館が全日本が76年「スーパー・パワー・シリーズ」12月7日、馬場vsザ・スピリットのP WFヘビー級選手権試合(2−1で馬場が防衛、試合中にスピリットがマスクを剥がされてキラー・カール・コックスの正体を明かす)、大木金太郎vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、ビル・ロビンソンvsディック・マードックのカードで6,200人(超満員発表)。
新日本は1月14日、上田初参戦となった坂口&S小林組vsシン&上田組北米タッグ選手権試合初戦と猪木とハンセンのシングルマッチで4,500人(満員発表)で福岡は豪華カードで勝負した全日本の勝利。
大阪府立体育会館は全日本の77年「新春ジャイアント・シリーズ」1月6日、馬場&鶴田組vsマーク・ルーイン&キング・イヤウケア組のノンタイトル戦、ザ・デストロイヤーvsカリプス・ハリケーンで3,700人発表、新日本は2月2日、福岡大会と同一カードで9,000人(超満員発表)でダブルスコア以上の大差がついて新日本が圧勝しています。
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