73年国際プロレス「チャレンジ・シリーズ」終盤戦、3月9日、新潟市体育館(観衆4,500人満員発表)大会。メインイベントではストロング小林とマッドドッグ・バションが金網デスマッチで対戦。3月7日の四日市大会で小林がホースト・ホフマンを2−1で破ってIWA世界ヘビー級王座18度目の防衛に成功したことで、シリーズ最終戦の3月16日、町田市体育館では小林とバションのIWA世界戦が正式に決定し、タイトルマッチを前に2度目の金網での対決。
試合は20分17秒、小林がカウントアウト勝ちでバションを破りました。マッチメイクの難しさについては前回、前々回も書きましたが、こういうやり方が、公式記録に載らない金網デスマッチやタイトルマッチに繋がり、プロレス熱戦譜の試合記録の改竄疑惑を生じさせて、ファンの信用を失墜させることになる訳です。
国際プロレスには馬場、猪木というスーパスターがいない分、興行の水揚げの為に仕方なくプロモーターの要望に応えていたというのが実態だったのは理解出来ます。テレビ放送時間の短縮による放映権料が減収したのも大きいと思います。だからといってタイトル戦を前に金網デスマッチを乱発していては、ベルトの価値を団体側が貶していると言っても過言ではないです。
セミファイナルはグレート草津&マイティ井上組とラパパポスキー&アンジェロ・モスカ組がタッグマッチ45分3本勝負で対戦。1本目は14分20秒、ラパパポスキーが井上を体固め、2本目は6分7秒、井上がラパパポスキーを体固め、決勝の3本目は4分50秒、草津が裸絞め(コブラクラッチ)でモスカをギブアップさせ、2−1で草津&井上組が勝利を飾りました。
ホースト・ホフマンは寺西勇を12分53秒、体固めで破り、ホセ・クインテロはミスター珍を15分3秒に片エビ固めで降しています。
3月14日、福島県原町(はらのまち)市(現在の南相馬市)体育館(観衆3,000人発表)大会。メインイベントは小林&草津組の保持するIWA世界タッグ王座にバション&ラパパポスキー組が再挑戦。バション&ラパパポスキー組は3月8日、長野市民体育館で同王座に1度挑戦していますが、2−1で敗れており、今回は捲土重来を期しての再チャレンジとなりました。
1本目は13分32秒、小林がバションを体固め、2本目は4分57秒、バションが小林をエビ固め、決勝の3本目は3分30秒、草津がラパパポスキーをエビ固めで撃破、2−1で小林&草津組が6度目の防衛を果たしています。
セミファイナルは井上vsホフマンの今シリーズ3度目のシングルマッチ45分3本勝負。両者は2月25日、前橋大会でヨーロッパ・スタイルの5分4ラウンド1本勝負、3月6日、広島大会で30分1本勝負でいずれも時間切れ引き分け。今回は試合時間を拡大しての決着戦となりました。
1本目は15分50秒、井上が体固め、2本目は14分50秒、ホフマンが体固め、決勝の3本目は45分時間切れとなり、1−1の引き分けでまたしても決着はつかず。
田中とクインテロのシングルマッチは18分50秒、片エビ固めで田中が勝利を収め、モスカはミスター珍&栄勇(スネーク奄美)と1対2ハンディキャップマッチで対戦、17分7秒、栄を体固めで破りました。
シリーズ最終戦、3月16日、町田市体育館(テレビ収録、観衆3,500人超満員発表)大会。メインイベントは小林のIWA世界ヘビー級王座にバションが金網デスマッチで挑戦、20分58秒、小林がカウントアウト勝ちで19度目の防衛に成功しています。
セミファイナルは異例の日本人同門対決、井上と寺西が45分3本勝負で対戦。両者は2月10日、全日本プロレス、足立区体育館の「ジャイアント・シリーズ結集戦」開幕戦で国際プロレス提供試合として対戦し、20分時間切れ引き分け、3月8日、長野大会でホームの国際プロレスのリングで対戦し30分時間切れ引き分け。
そして本日3度目の対戦に至る訳ですが、メインのIWA世界戦が金網でテレビ放送されない為、テレビ的にはメインイベントとなります。1本目は34分52秒、寺西がエビ固め、2本目は3分22秒、井上が体固め、決勝の3本目は45分時間切れ。10分間の延長戦を行い、引き分け。さらに10分再延長戦となり、7分7秒、井上がエビ固めに丸め込んでカウント3。合計62分7秒、井上が熱戦を制しました。
草津&大剛鉄之介組とラパパポスキー&モスカ組のタッグマッチ45分3本勝負。1本目は5分55秒、モスカが大剛を体固め、2本目は2分57秒、草津がラパパポスキーを逆さ押さえ込み、決勝の3本目は4分4秒、大剛がモスカをエビ固め、2−1で草津&大剛組が勝利を収めています。
ホフマンと田中のシングルマッチは10分45秒、体固めでホフマンのフォール勝ち。クインテロは珍を17分30秒、逆片エビ固めでギブアップさせました。
旗揚げ以来、国際プロレスから選手貸し出しの支援を受けていた馬場の全日本プロレスですが、前72年12月19日、新潟市体育館で新設された百田家から寄贈された力道山ゆかりのインターナショナル王座を復活させた「世界ヘビー級王座」争奪十番勝負第4戦で「馬場に負けたら軍門に降る、何でも言うことを聞く」と公言していたザ・デストロイヤーが馬場に1−1からリングアウト負けし、約束通り馬場の軍門に降った形で日本陣営に加入。73年3月から家族を連れて日本に居住し全日本プロレスの一員となりました。
73年2月には、全日本プロレスの外国人メインブッカーだったドリー・ファンク・シニアの肝入りで毎年8月の年次総会を待たずして臨時総会が開かれ満場一致でNWA加盟が認められています。
全日本プロレスは旗揚げから僅か半年足らずで春の祭典「チャンピオン・カーニバル」を開催。当時はまだ日本プロレスが存続しており、「ワールド・リーグ戦」の名称は使えず、公式戦(トーナメント)とタイトルマッチの2本柱でシリーズを構成。
馬場は10戦に亘る世界ヘビー級争覇戦を8勝0敗2分の成績で突破し、この年の3月16日にハワイのホノルルを中心に結成されたPWF(パシフィック・レスリング・フェデレーション、太平洋沿岸レスリング同盟、ロード・ブレアース会長)の認定する初代世界ヘビー級王者に認定されています。
また「チャンピオン・カーニバル」に参加する外国人選手ではデストロイヤーがPWF認定USヘビー級王者、マーク・ルーインが南半球ヘビー級王者、前72年1月に国際プロレスに来日したキング・イヤウケアが太平洋岸ヘビー級王者、カリプス・ハリケーンが中南米ヘビー級王者とそれぞれチャンピオンを名乗り、タイトルマッチを行いました。
ルーイン、イヤウケア、ハリケーンの王座はチャンピオン・カーニバルの肩書用に作られたダミー王者です。
看板タイトルも出来、日本陣営も充実、春の祭典を開催するなど団体として力をつけてきたことで国際プロレスからの選手借り受けも2月の「ジャイアント・シリーズ結集戦」で一旦打ち止めとなりました。
吉原功社長は引き続き全日本プロレスとの協調関係を約束、全日本プロレスが春に「チャンピオン・カーニバル」を開催するということで、観客の食い合いを抑止し、無益な興行戦争を回避する目的で70年の第2回大会より、毎年春に開催していた「IWAワールド・シリーズ」をこの年は秋に開催するとマスコミのインタビューに答えています。
「チャンピオン・カーニバル」には国際プロレス創設に関わったヒロ・マツダとマティ鈴木が日本側から助っ人参戦していますが、(鈴木はチャンピオン・カーニバル以降、全日本にレギュラー参戦)小林は全日本プロレス参戦の為に帰国したマツダと鈴木を羽田東京国際空港に出迎えに行き、挨拶をしに行っています。
小林には2人は師匠筋にあたり、国際プロレス入門後、基礎を教わっていますが既に吉原社長及び国際プロレスとは絶縁しており、わざわざ迎えに行く必要もないかと思いますが、そこが小林の義理堅さなのでしょう。
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