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2018年02月28日08:09

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(294)

73年4月20日、群馬県吉井町体育館大会を最後にに日本プロレスが興行活動を停止し、日本プロレスリングコミッショナーもその役割を終えました。

日本プロレスリングコミッショナーと言っても傘下に入っていたのは日本プロレスだけで、豊登、猪木によって66年に旗揚げされた東京プロレスと、国際プロレスはコミッショナーの非公認であり、結局は1団体のお手盛りコミッショナーでした。

しかし、力道山がプロレス興行を日本で開始する時に、アメリカでやっていたエンターテインメントのショーとしてのプロレスだけでは日本人の好みに合わないと判断、新しいプロスポーツである、という提供をファンにしていく上で、プロレスをプロ野球、大相撲と並ぶようなメジャープロスポーツにしようと考えていたのは確かで、コミッショナー制度は必要不可欠と言えます。

日本プロレスリングコミッショナーは選手のライセンス発行や選手権の管理、認定を行っており、
上田馬之助は亡くなるまでコミッショナー発行のライセンスを所持しておりました。

力道山はコミッショナー制度と並行して「日本プロレス協会」の設立にも着手しました。協会は建前上、業界としての横の組織であり、初代会長はコミッショナーと同じ酒井忠正が務めましたが、右翼の大物である児玉誉士夫が会長になり、副会長には暴力団山口組の田岡一夫、町井久之らが就任。

これには日本プロレスを放送していた日本テレビ、三菱電機が難色を示し力道山死後は衆議院議員の平井義一が会長を務めていましたが事実上は機能しているとは言い難かったと思います。

その一方でプロレスファンからも「プロレスに野球のような統一コミッショナーがないのはおかしい」と言われることも多々ありました。

新日本プロレスではNET(テレビ朝日)の放送がついた73年からコミッショナーではありませんでしたが、秋田大助、福田宏一、森喜朗らの大物政治家をリングに上げて「認定宣言」を読ませています。

猪木は「新間は政治家をリングに上げるの好きだからなぁ」と言っていましたが、やはり選手権試合に対する威厳を必要としていたように思います。

とはいえ、新日本プロレス1団体で「コミッショナー」を名乗るのはやはり周囲から批判の対象になりかねない。ならば、国際プロレスと提携したタイミングで2団体が擁立してコミッショナーを作ってしまえば、全日本女子プロレスを除いた2/3が傘下に入ることになり、成り立ちます。

全日本プロレスと国際プロレスが親密関係にあった時代は、マスコミを通して新日本プロレスが両団体に色々な呼び掛けを行い、全日本と国際が結託して「そんなものには協力する気はない」と拒絶するパターンが多かったですが、国際が新日本とくっついたことで、新日本と国際が呼び掛けて全日本がこれを拒絶、という図式になりました。

もちろん馬場は新日本と国際が推薦した二階堂進コミッショナーの傘下に入る気は全くありませんでした。

馬場は政治家との付き合いは好きではなく、交流があったのは鶴田の全日本プロレス入団に協力してくれた八田一朗衆議院議員位で、選手権の管理はすべてPWF会長であるロード・ブレアースに委任していたため、今更コミッショナーは不要だった訳です。
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