78年11月10日放送のワールドプロレスリングは10月30日、岡山武道館での坂口、ストロング小林組vsキラー・カール・クラップ、ブルート・バーナード組の北米タッグ選手権試合と猪木vsジ・エクスキューショナーの試合が放送されましたが、番組の中で翌週の11月17日、後楽園ホールで開幕するプレ日本選手権の予告VTRが流されました。
プレ日本選手権は新日本プロレス所属選手以外はヒロ・マツダ、上田馬之助、マサ齋藤、剛竜馬、サンダー杉山の5人の狼軍団だけで、同時期に開催されていた国際プロレスの日本リーグ争覇戦が全日本プロレスから鶴田、ミスター・サクラダ(桜田一男、後のケンドー・ナガサキ)他、全日本系フリーの大木金太郎(決勝トーナメントには出場せず)、キム・ドク、石川孝志(隆士)、日系人のプロフェッサー・タナカ(実際はフィリピン人)、ディーン・ホー等豪華メンバーだったに対して寂しい顔ぶれでした。
セミリタイア状態にあったサンダー杉山まで担ぎ出さないといけない人材不足だった訳です。
杉山は明治大学レスリング部出身で64年東京五輪にグレコローマンスタイルで日本代表として出場。同じ明大レスリング部の後輩で同じく五輪出場の齋藤昌典(マサ)、ラグビー日本代表の草津正武と共に65年に日本プロレス入り。
日本プロレスは「大枚の札束を積んでスカウトしなきゃいけない大物選手が向こうから来てくれた」と大喜びでした。
しかし、齋藤、草津と共に67年に日本プロレスを離れて国際プロレスへ移籍。アメリカ修行の後凱旋帰国しメインイベンターとして活躍、68年1月にはルー・テーズのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦。
70年5月19日、仙台市レジャーセンターではビル・ロビンソンを破りIWA世界ヘビー級王者となり、71年3月4日、北九州市小倉区三萩野体育館でビル・ミラーに敗れるまでの8か月間、短命政権ながら国際のエースとなりました。
72年に馬場が日本プロレスを離れ、全日本プロレスを旗揚げすると日本陣営が手薄だった全日本に円満移籍。当時杉山は名古屋の医薬品メーカースズケンの営業部長としても活躍し、サンダー杉山コーポレーションの代表取締役として不動産賃貸業等の事業にも成功、さらにタレント活動でもテレビに頻繁に登場していました。
「プロレス?嫌いだよ。だって痛いじゃない」
と公言していましたが引退後の人生設計を当時から立てておりました。
兼業レスラーだった杉山は他の国際の選手との間に溝が出来てしまい、団体内で浮いた存在でした。
馬場は杉山の副業を承知した上で全日本プロレスに入団させました。全日本は外国人選手は豪華なメンバーを集めていましたが日本側は馬場の次が大熊元司、マシオ駒であり、TBSの国際プロレス中継に出ていて、タレントとしてのネームバリューもある杉山の加入は地方巡業でもメリット大でした。
鶴田、ザ・デストロイヤー、アントン・ヘーシンクが加入し、73年6月には4月に崩壊した日本プロレスの残党を受け入れて選手層が急激に厚くなった全日本プロレスにとって兼業レスラーの杉山の存在は不要になってきつつありました。
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