新日本プロレスの78年闘魂シリーズは10月6日、新潟市体育館で開幕。このシリーズは東京都内の会場での興行開催がありませんでした。
新日本は前77年4月のゴールデン・ファイト・シリーズ、続いて開催された6月のアジア・チャンピオン・シリーズの2シリーズは東京での開催はなし。
全日本プロレスや国際プロレスが頻繁に後楽園ホールを使用していたのと比べれば新日本プロレスの後楽園ホールの興行回数の少なさは目立ちました。
後楽園ホールは所有者である後楽園球場と読売巨人軍、日本テレビの関係からやはり馬場の全日本プロレスが強く、新日本は旗揚げしてから1年4か月経過した73年7月6日にようやく初使用。その後はシリーズ開幕戦等を中心に全日本ほどの頻度はないもののコンスタントに使われて来ました。
しかし、76年8月27日の闘魂シリーズ開幕戦から78年11月17日のプレ日本選手権開幕戦まで2年3か月という長期間後楽園ホールを使っておりません。
これは日本テレビと全日本プロレスの妨害というより、新日本プロレスが後楽園ホールでの開催に拘っていなかったことが要因と考えます。
闘魂シリーズにはクリス・マルコフ、キラー・カール・クラップ、ブルート・バーナード、チャボ・ゲレロ、トニー・ロコ、ジ・エクスキューショナー(カーティス・スミス)の外国勢が参加。
地味なメンバーであり、エース格3人はNET(テレビ朝日)の放送がついたばかりのような暗い顔ぶれとなった感じでした。
マルコフは69年4月日本プロレス第11回ワールド・リーグ戦に初来日、外国人側の優勝候補と言われたゴリラ・モンスーンが山本小鉄に敗れるなど決勝進出を逃したのを尻目にボボ・ブラジルと共に外国人側の首位となりました。
日本側は馬場と猪木が同点で決勝へ進出、4者による優勝決定トーナメントが5月16日、東京体育館で行われました。
「抽選で」決まった決勝トーナメントの組合せは第1試合が馬場vsブラジル、第2試合が猪木vsマルコフ。「馬場と猪木がトーナメントで勝てば、馬場と猪木による優勝決定戦実現か!?」と観客は色めき立ちました。
しかし、何故か「30分1本勝負」で行われた決勝トーナメントでは馬場とブラジルが時間切れ引き分け。この結果、次の猪木vsマルコフ戦の勝者が優勝となりました。
試合はマルコフが激しいラフファイトで猪木を苦しめましたが、17分45秒、猪木が卍固めでマルコフをギブアップさせて勝利、馬場の4連覇を阻止し悲願の初優勝を遂げました。
この試合は猪木のいわゆる「出世試合」として歴史に残る試合となり同時に初来日のマルコフも大いに株を上げた訳です。
翌70年の第12回ワールド・リーグ戦に再来日、この時は若手の高千穂昭久に反則負けを喫した取りこぼしがあり、外国人側のエース、ドン・レオ・ジョナサンに0.5点及ばずで決勝進出成らず。
一方の日本陣営も猪木が公式戦でマルコフに手痛い反則負け、ダッチ・サベージに両者リングアウトで馬場にやはり0.5点差をつけられて決勝には出られず。
5月29日、日大講堂で行われた優勝決定戦は馬場がジョナサンを2-1で破って2年ぶりに優勝返り咲きを果たしています。
マルコフが良かったのはここまで。71年7月に日本プロレスに来た時は8月2日、福岡スポーツセンターで馬場のインターナショナル王座に挑戦するも2-0のストレート負け。(1本目は反則)
日本プロレス崩壊後の74年11月には全日本プロレスに参戦。12月6日、新潟市体育館ではザ・デストロイヤーのUSヘビー級王座に挑戦して1-1から反則負け。
12月12日、川崎市体育館で馬場のPWFヘビー級王座に挑戦、2-0のストレート負けとなり2度と全日本からは呼ばれなくなっていました。
それから4年、既に38歳となっており、AWA地区でジョバーをしていたマルコフがいきなりエース格で新日本にやって来て、猪木と9年半前の名勝負再現、と言ってもいささか無理があったように思います。
ログインしてコメントを確認・投稿する