81年11月1日、日曜日の後楽園ホール大会(テレビ収録)、私はこの興行は観戦しに行きました。
メインイベントはブルーザー・ブロディのインターナショナル・ヘビー級王座に前王者ドリー・ファンク・ジュニアがリターンマッチを挑みました。
試合は時間無制限1本勝負、両者流血の攻防となりブロディが場外でドリーにパイルドライバー、
しかしドリーはこれをリバーススープレックスで切り返してリングへ上がろうとしました。そこへブロディのセコンド、バック・ロブレイが手を出して妨害。
ブロディと共にドリーに攻撃を加えた為、13分52秒にブロディの反則負け、PWFルールによりドリーが辛くも23日ぶりに王座奪回に成功しています。
セミファイナルは鶴田、天龍組がタイガー・ジェット・シン、上田馬之助組と対戦。
この試合でシンは80年6月の新日本サマー・ファイト・シリーズでフィニッシュに多用したコブラシザーズ(首4の字固め)で天龍からギブアップ勝ちを収めています。
セミ前には石川隆士、佐藤昭雄組に元国際プロレス最後のIWA世界タッグ王者チーム、阿修羅・原、マイティ井上組が挑戦したアジア・タッグ選手権試合が行われました。
1本目は9分1秒、井上が石川の後方回転エビ固めをロープを掴んで自爆させてエビ固め。
2本目は2分23秒に石川が原を回転エビ固め。
決勝の3本目は3分6秒に両チームリングアウトとなり1-1の引き分けで石川、佐藤組が2度目の防衛に成功しています。
オールドファンの間でよく語られる「新日本プロレスで中堅だった山本小鉄、星野勘太郎のヤマハ・ブラザーズがグレート草津、アニマル浜口組から国際プロレスの看板タイトルだったIWA世界タッグ王座(79年1月21日、後楽園ホール)を奪った事で国際が新日本よりレベルが低いという認識が一般的に広がってしまった。新日本は酷いマッチメークを国際に課した。これが国際が潰れた要因の一つ。馬場ならそんなことはしなかったはず。先輩である吉原(社長)さんの顔を立てた」
というのがいわゆる「定説」になっていますが、この試合の結末を見る限りそうではなかったことがお分かり頂けるかと思います。
もちろん、団体対抗戦と所属になってから、というのは違いますが、
76年3月28日、蔵前国技館で行われた全日本と国際の全面対抗戦の最終試合で全日本のアジア・タッグ王者チームグレート小鹿、大熊元司組と国際のIWA世界タッグ王者チーム草津、井上組がダブル・タイトルマッチで対戦。
1-1から両チームリングアウトの引き分けとなっています。
このマッチメークで馬場が「IWA世界タッグはインターナショナル・タッグと同一レベルに非ず、アジア・タッグと同格」という判断をした為、以後の両団体のタイトルの位置付けが、決定的なものになってしまいました。
ただし、この判断は正しかったと思います。
新日本が明らかに国際を見下したのは木村健吾、永源遥組を挑戦者チームに持ってきたあたりからでした。
翌11月2日、前橋・群馬県スポーツセンターで鶴田はセミ前の45分1本勝負でシンとシングルで初対戦。
場外乱闘で馬場と上田が加わり4分41秒に両者リングアウトに終わりました。
セミでは馬場とブロディがノンタイトル60分1本勝負で対戦、6分36秒両者反則となっています。
この日のメインは天龍がドリーとテリーのザ・ファンクスと組んで上田、アレックス・スミルノフ、ロブレイ組と対戦。
1本目はロブレイが天龍を体固め、2本目はドリー組のリングアウト勝ち、3本目は天龍がロブレイを回転エビ固めで破り2-1でファンクス、天龍組が勝利。
天龍がメインで結果を出せるようになり、徐々に本領を発揮して来るようになりました。
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