団体の現役世界ヘビー級王者が退団して他団体の王者に挑戦するという、日本プロレス史上前代未聞のアントニオ猪木vsストロング小林戦が正式決定。3月1日には新宿・京王プラザホテルで両者による調印式が行われました。
新日本プロレスの「創立2周年記念ビッグ・ファイト・シリーズ」最終戦、3月19日蔵前国技館で猪木のNWF世界ヘビー級王座の初防衛戦として行われることとなり、試合時間は90分1本勝負。主催者には東京スポーツ新聞社が名を連ねました。
両者スーツ姿。立会人である主催の東スポ井上博社長が「正々堂々スポーツマンシップに乗っての戦いを」とコメント、猪木は「怪電話がかかってきて悩まされている。小林の仕業とは思いたくないが…」と猪木一流のジョークとも本気とも取れるコメントで小林を挑発する心理作戦。小林は「そんな覚えはない」と反論。
両者調印書にサインした後、健闘を誓い合ってガッチリ握手、すると次の瞬間猪木が小林の顔面に「バシーン!」と痛烈な張り手を一撃、不意を突かれてダウンする小林、怒って猪木に掴みかかる小林でしたが、静止されて退場。前哨戦は早くもスタートしており、第1ラウンドは猪木に軍配が上がりました。
一方、猪木と同時に小林から内容証明郵便による挑戦状を送られた馬場は2月21日にバケーションで行っていたハワイから帰国、もちろん、小林と水面下で交渉して猪木&新間ラインに敗れ、獲得に失敗したことなどはおくびにも出さず、小林が送りつけてきた内容証明郵便が新日本プロレスの入れ知恵によるものと察知しており、取材に対して、
「小林がフリーになったということは聞いている。内容証明の手紙も事務所には届いているようだ。しかし小林は本当に国際プロレスとは縁が切れたのかね?吉原代表と話がついてそうなったのかなぁ…。挑戦を受ける受けないは今ここで返事が出来る話じゃない」と即答を避けていました。
その後、吉原社長と馬場が話し合いを持ち、小林は国際プロレスの支配下にある選手であり、フリーとは言い難いと判断「現時点では出来ないな」という結論を出しています。「馬場は小林の挑戦を黙殺した」と書いてある文献もありますが、すでに新日本プロレスに行くことを決めていた小林の挑戦など最初から受けられる話ではなかったでしょう。
また、前73年12月の「ジャイアント・シリーズ第2弾」を最後に全日本プロレスを離れ、韓国に帰っていた大木金太郎が3月7日に突如として何の前触れもなく来日し記者団を集めて「猪木vs小林戦の勝者に挑戦する。日本には多くのベルトがあり過ぎる。私はインターナショナル・チャンピオンとしてベルトを賭けてNWF世界チャンピオンと対戦したい」とぶち上げました。
チケットがプレイガイドで発売開始になると即日完売、3月8日に国際プロレスの吉原功社長は新宿区高田馬場の事務所で記者会見を行い、�。慣遑影�付で「ストロング小林」のリングネームを剥奪、��同日付で小林を追放・除名処分とすると発表しました。
また、取締役営業部長だったグレート草津に続き、ラッシャー木村の取締役管理部長就任を発表。役員就任は退団しない為の足止め工作でしたが、裏を返せばエースでありIWA世界ヘビー級王者だった小林を役員にしていなかったというのも国際プロレスが脇の甘さを露呈しており突然出て行かれない様、日頃から処遇面含め選手のケアをキッチリやっておくべきだったと思いますが時既に遅し。
吉原社長の会見を見た猪木vs小林戦の主催者である東スポの井上社長はこれではいけないと3月10日に銀座東急ホテルで小林と吉原社長を引き合わせました。一時は吉原社長と「話もしたくない」と態度を硬化させていた小林でしたが、この場で吉原社長に謝罪。
国際プロレスとの契約書の中にある「違約金1,000万円」については主催者である東スポが肩代わりして、吉原社長にトレードマネーとして支払われました。井上社長は「プロレス界発展の為」と英断を下した訳です。74年当時の1,000万円はかなりの高額ではありますが、プロレス冬の時代に打ち勝つ起爆剤としてこの一戦は是が非でも実現させる意義がありました。
猪木vs小林戦で東スポの発売部数が伸びればすぐに回収出来るという判断でしょう。東スポの井上社長は「これからの日本プロレス界は猪木だよ」と猪木をプッシュ、前73年10月14日、新日本プロレス蔵前国技館での猪木&坂口征二組vsルー・テーズ&カール・ゴッチ組の「世界最強タッグ戦」を主催。
話題性に乏しいジャイアント馬場の全日本プロレスは東スポには魅力なく映ったか、これに嫉妬した馬場が同年10月9日、蔵前国技館大会での沖識名レフェリー引退興行を当初のジャパン・レスリング・ユニオンに主催者から手を引かせ、第一運動部長だった山田隆氏に働きかけて東スポのスポンサード何とか取り付けたもので、やはり東スポは猪木寄りと言えました。
金銭問題は解決、TBSの放送が打ち切られ、あてにしていた放映権料が入ってこなくなった国際プロレスには運転資金が必要で、現金積まれて背に腹は代えられなかったのか…。
これで晴れて小林はフリーというか、正式には東スポ所属レスラーとして猪木と対戦することになりました。
さて、新日本プロレスの「創立2周年記念ビッグ・ファイト・シリーズ」は2月22日後楽園ホール(テレビ生中継、観衆2,600人満員発表)で開幕し、国際プロレスの常連外国人だったモンスター・ロシモフが「世界の八番目の不思議」アンドレ・ザ・ジャイアントとして新日本プロレスに初登場。
前73年に提携したロサンゼルスのマイク・ラーベルからニューヨークWWWF代表のビンス・マクマホン・シニアに繋がり、ビンス・シニアルートが確立されました。
アンドレは巨大な身体をさらに大きく見せる為に当時のソウルミュージシャンみたいなアフロヘアにしより怪物性を増しての来日、小林戦の4日前、3月15日岡山武道館(テレビ生中継、観衆4,200人超満員発表)で猪木とノンタイトル60分1本勝負で対戦、猪木はアンドレにキーロックを掛けたままアンドレがこれを持ち上げ、アンドレのマネージャーであるフランク・バロアが猪木の足を引っ張って転倒させ、ジャイアントプレス、20分19秒にアンドレが体固めで猪木からフォール勝ち。
対する小林は72年5月6日、盛岡・岩手県営体育館での「第4回IWAワールド・シリーズ」優勝決定戦で反則とカウントアウトながらロシモフから2本奪って勝っており、猪木は決戦を前にピンチに陥りました。
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