第258戦、10月12日発売号●【予想】「燃える闘魂」の原点、東京プロレス旗揚げ戦、猪木vsジョニー・バレンタイン(66年東京プロレス蔵前国技館)【正解】血で血を洗った全日本史上最高の因縁抗争、PWF認定USヘビー級選手権試合、ザ・デストロイヤーvsアブドーラ・ザ・ブッチャー(75年全日本プロレス大阪・千里中央万博お祭り広場)【参考】2016年10月12日発売号は予想に同じ。
既出ネタはこれまでなるべく予想しないようにしていましたが既出であっても、掲載するタイミングと歴史的意義が合致すれば違う視点で再度検証するのもそれはアリかなと思うようになりました。そういった意味で、猪木の死去という大きな出来事の中において東京プロレス旗揚げ戦というのは極めて重要だと思い予想したものの外れました。
【予想解説】63年12月15日、社長でありワンマンエースだった力道山が暴漢に刺された傷が元で腸閉塞を起こし39歳で急死。力道山死後の日本プロレスは、社長に就任した豊登を中心に、芳の里淳三、遠藤幸吉、吉村道明の4人を中心としたいわゆる「トロイカ体制」を組む形で難局の中で再スタート、豊登がエースであったものの、その豊登を凌ぐ存在として209cm、145kg、2度目のアメリカ武者修行から帰国した馬場がエースの座に肉薄していました。
65年、日本プロレスは馬場をエースの座に据え、力道山が生前保持していたインターナショナル王座を復活(ベルトは違うデザインのモノが新たに作られた)させ、馬場はデストロイヤー、アルバート・トーレス、ザ・ブッチャー(スーパー・デストロイヤーことドン・ジャーデン、アブドーラとは別人)ジ・アサシンズA(トーマス・リネストウ)ら世界の強豪を破って王座決定戦への出場資格を得て、日本代表として65年11月24日、大阪府立体育会館で力道山が生前「呼びたくても売れっ子でスケジュールの調整がつかなかった」大物ヒール、「生傷男」ディック・ザ・ブルーザーと王座決定戦を行い、2本共に反則勝ちながら2−0のストレート勝ちで王座を獲得。
王座決定戦ではブルーザーに比べてひ弱な印象を受けた馬場でしたが、3日後の11月27日、蔵前国技館でのリターンマッチでは1−1から両者リングアウトの引き分けながらブルーザーから1フォールを奪い初防衛に成功、馬場が力道山の後継者として日本プロレスの真のエースの座に君臨しています。
そんな中、日本プロレスは65年11月24日に行われた役員会で、豊登の社長解任を決議して翌66年1月5日、社長辞任が正式に発表されました。
この時点では、表向きは持病だった尿管結石の悪化で辞任と発表されましたが、3月21日に正式な解任理由が後任の社長に就任していた芳の里から発表され、解任理由は「豊登の公金横領」で、65年11月から欠場していた理由は、「会社の資金を横領し、競馬、競輪などのギャンブルに流用していたことが発覚したため」で、実際には謹慎処分にしていたと公表しています。その負債額は当時の金額で2,000万円とも4,000万円ともと言われ、豊登のギャンブル依存症ぶりが浮き彫りにされています。
豊登の社長解任に伴い、馬場が28歳という若さで取締役に就任、馬場に経営責任の一役を担わせ、フリーになってアメリカに行かれない為の工作でもありました。
日本プロレスをクビにされた豊登は、力道山時代から縁のあった新宿の「寛通寺」住職の新間信雄と息子で日本橋の日本プロレス道場に通っていた新間寿父子に接触して新団体を旗揚げする意向を表明。豊登には日プロから数百万円の退職金を受け取っていましたが、ギャンブルに全て使ってしまって資金がなく、新間親子に泣きついて旗揚げ資金を工面することになりました。
豊登の新団体旗揚げ表明を受けて、日本プロレスから豊登の子飼いだったか田中忠治を初め、木村政雄、齋藤昌典、北沢幹之が退団して新団体に参加することとなり、2月に静岡県伊東市で合宿を開始し。豊登が参加メンバーとしてあてこんでいた大木金太郎、星野勘太郎、高千穂明久らは日本プロレスに留まり、また在米フリーのヒロ・マツダにも入団を断られ手薄な選手層でのスタートを余儀なくされました。
そこで豊登は、新団体の目玉として弟分的な存在であった猪木の引き抜きを画策することとなった。当時アメリカに遠征していた猪木は、日本プロレスの「第8回ワールド・リーグ戦」へ凱旋参加するためアメリカでの武者修行を打ち上げ、3月10日に猪木に連れ添っていたレフェリーの沖識名と共にロサンゼルスから馬場や吉村と合流しての合同トレーニングへ向けてハワイへ移動することとなりました。
猪木は、当時ライバルであった馬場の遠征時の日本プロレスの扱いと比べ、遠征中に日プロからは何も連絡がなく、日本では常に猪木の先を走っていた馬場の人気が沸騰していたこともあって、「俺は本当に日プロから大事にされているのか、馬場さんとの差がどんどん開いていく気がする」と自分への待遇に疑問を抱くようになっていました。猪木のハワイ到着時のマスコミの取材も少なく、しかも到着日に宿泊するホテルが予約されていなかったこもあって、日プロの対応にますます不安感を持った猪木を、豊登がハワイ入りして口説く形となりました。
吉村、馬場と合流した猪木は「吉村さん達の態度がよそよそしく感じた」と自書「燃えよ闘魂」で触れていますが、それもそのはずで吉村は日本を発つ前に「豊登が猪木を新団体に誘い入れる為にハワイに来る」という情報を入手しており、また猪木は日本プロレスの外国人ブッカーをしていたミスター・モト(チャーリー岩本)から「お前のギャラは外国人と同じ週給ドル建てで払うから」と言われ、「日本に帰るのに何でだろう?」と日本プロレスに対する不信感は増幅していきました。
吉村は猪木の豊登新団体への参加を阻止せんとし3月19日夕方のホノルル国際空港発の航空機で馬場と吉村、沖と一緒に帰国することを一度は承諾しましたが、帰国当日に豊登の宿舎だったパコダ・ホテルに呼ばれ、「寛至、お前はこのまま日本プロレスに帰ったら一生馬場のうえには行けない、俺と一緒に新しい団体を作ろう、お前がエースだ。社長にしてやる」と説得され「飛行機嫌いの豊さんがわざわざハワイまで来てくれた」と翻意。搭乗が予定されていた飛行機には乗らず、猪木は3月21日に日本プロレスに国際電話を入れて退団する事を表明、これがいわゆる「太平洋上猪木略奪事件」です。
同年4月23日に猪木の豊登と共に帰国、新団体の名称は「東京から世界へ」という意味を込めて「東京プロレス」と名付けられ、新宿区柏木町(現在の百人町)に事務所が開かれました。
猪木は外国人ブッキングルートを確保する為渡米、猪木の素質を買っていた「ミネソタの砂嵐」サニー・マイヤースが協力、猪木を筆頭に選手をある程度確保できたことで、66年8月に旗揚げ戦を蔵前国技館で開催することを発表しました。しかし、この情報を聞きつけた日プロは、豊登による新団体を短期間で崩壊させるべく妨害工作を開始し、この時は延期されました。
10月3日、千代田区の神田美土代町のYMCAジムで公開練習が行われ、猪木がアントニオ・ドライバー(フロントネック・チャンスリードロップ)を初披露しています。
10月12日、蔵前国技館で旗揚げ「ビッグマッチ・シリーズ」開幕戦が行われ、9,000人の観衆を動員、外国人レスラーはバレンタイン、ジョニー・パワーズ、マイヤース、ザ・ヘラキュリー(ボビー・グラハム)、ラッキー・シモノビッチが参加。
開幕戦のメインイベントは猪木vsバレンタインのシングルマッチ時間無制限1本勝負。31分56秒、猪木が場外でのアントニオ・ドライバーでリングアウト勝ち。アメリカ修行の成果をアピールする形となりました。
【正解解説】今回の正解は前週の予想の続編となる感じですが、74年「ジャイアント・シリーズ」10月5日、日大講堂で馬場とのPWFヘビー級選手権試合で大流血の末、ドクターストップ負けを喫したブッチャーはシリーズ最終戦、10月10日、大阪・千里中央万博記念公園お祭り広場で春の「第2回チャンピオン・カーニバル」で血の抗争を展開したデストロイヤーの持つPWF認定USヘビー級王座に挑戦、1−1からブッチャーの反則負けで決着つかず。
ブッチャーは帰国後、オーストラリア時代から旧知の仲であるジム・バーネット主宰のジョージア州アトランタのテリトリーで売れっ子になりスケジュール調整がつかず、次の来日は1年後の75年9月26日、後楽園ホールで開幕した「ジャイアント・シリーズ」となりました。
全日本プロレスもこの時はブッチャーを1年間「寝かせておく」余裕があったと言えなくはないですが、75年という年は馬場が「日本プロレス時代にインターナショナル王座やワールド・リーグ戦決勝などで対戦した自分より年齢が上の『60年代の大物外国人』を最後にトップとして扱った年」と言え、ボボ・ブラジル、ディック・ザ・ブルーザー、ジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノ、キラー・コワルスキー、フリッツ・フォン・エリックが相次いで来日し馬場と対戦。
この年以降、全日本プロレスの外国人レスラーのメンバーはブッチャー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソンなど馬場と同年代か若い世代の『70年代の大物外国人』が中心になって来ます。
全日本プロレス内でも2月5日、テキサス州サンアントニオで鶴田が馬場と組んでインターナショナル・タッグ王座を獲得したことで、助っ人外国人のデストロイヤーのポジションが微妙に下がりました。
10月12日、1年前と同じ万博記念公園お祭り広場で因縁のデストロイヤーとブッチャーがPWF認定USヘビー級王座を賭けて対戦、試合は時間無制限1本勝負。デストロイヤーは両拳をバンテージでグルグル巻きにした「コンクリートバンテージ」でブッチャーの額をナックルで殴りつける反則攻撃。
ブッチャーはこの時の来日から裸足ではなく先の尖った「凶器シューズ」を履いており、凶器シューズと凶器攻撃でデストロイヤーを流血させ、白覆面が朱に染まりました。
デストロイヤーより11歳若く、まだこの頃はいくらか細かったブッチャーのスタミナが上回り、15分54秒、ブッチャーがジャンピング・エルボードロップからの体固めでフォール勝ち。ベルト移動でブッチャーが新王者になっています。
デストロイヤーとブッチャーの「番付」が完全に入れ替わった試合でした。
※対戦戦績は258戦46勝212敗、勝率178。
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