mixiユーザー(id:21258650)

2019年08月18日21:27

363 view

猪木とビンス(500)最終章

初代IWA世界ヘビー級王者となったビル・ロビンソンは国際プロレスと半年契約で日本に家族と共に移住。

正義の外国人レスラーとして日本側に付き試合を行い、外国人=ヒールという図式を変えて見せました。69年の1月1日に国際プロレスは宮崎県体育館で新春パイオニア・シリーズの開幕戦を行い、新日本プロレスが82年に後楽園ホールで猪木vsローラン・ボックをメインに元日興行を行う13年も前に元日興行を行っています。

この日ロビンソンはグレート草津を2−1で降しIWA世界ヘビー級王座初防衛に成功。その後ロビンソンはチーフ・ホワイト・ウルフ、スタン・スタージャック、ラッシャー木村と防衛に成功しますが、ロビンソン一家(妻女と長男)は青山にマンションを借りて住んでいましたが奥さんが日本での生活に馴染めずホームシックとなり、契約を更新せずにロビンソンはイギリスに帰国しました。

国際プロレスではIWA世界ヘビー級の次はIWA世界タッグ王座の新設を行い、タッグに関してはフランスで王座決定トーナメントを開催しています。決勝は69年5月18日、パリのエリーゼ・モンマルトルで豊登&ストロング小林組がモンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフ組を2−1で破り初代IWA世界タッグ王者となりました。

この時決勝に出てきたロシモフが後のアンドレ・ザ・ジャイアントでロシモフと闘った豊登が吉原に「馬場よりも大きい、呼んでみては?」とアドバイス。吉原も商売になると思ったか、ロシモフ招聘に動きました。

ロシモフのマネージャーだったスペインのプロモーターで、イギリスのジョイント・プロモーションのジョージ・レスリコウの娘婿に当たるエンリケ・エドは「まだ試合がしょっぱいから日本に行くには時期尚早」と乗り気ではありませんでしたが、吉原は「馬場より大きい」というのがやはり魅力で渋るエドを押し切り、翌70年1月にロシモフを招聘することに成功します。

ヨーロッパ勢だけではリング上に派手さを欠くとしてTBSの要望もあり、吉原は69年8月のNWA総会に出席しNWAへの加盟を申請。しかしこれは大方の予想通り67年にNWAのメンバーとなっていた日本プロレスの妨害工作に遭い反対多数で否決されました。

吉原はその足でミネソタ州ミネアポリスに向かいミネアポリス、イリノイ州シカゴ等をテリトリーとしていたAWAのボスであり「ミネアポリス・レスリング&ボクシングクラブ」のオーナーで現役AWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアと会談を持ち選手のブッキングに関する契約を締結しています。
5 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年08月>
日 月 火 水 木 金 土
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031