第381戦、3月12日発売号●【予想】ヘビー級転向の藤波に試練の壁!飛龍十番勝負第2戦藤波辰巳vsハルク・ホーガン(82年新日本プロレス後楽園ホール【正解】巌流島の対決パート2を盛り上げた名レフェリング、清美川を東京スポーツが取材(74年3月12日)
【参考】2014年3月12日発売号は“怪力”と“ベンチプレス数字”の無関係を証明した皮肉、新日本プロレスが試合前にベンチプレス大会(82年新日本プロレス後楽園ホール)
【予想解説】82年新日本プロレス「第5回MSGシリーズ」3月12日後楽園ホールでのテレビ生中継では特別参加のホーガンが藤波と飛龍十番勝負第2戦で対戦。
ホーガンの勢いをうまくかわしながら、連続の巻き投げで投げ飛ばし、ホーガンの巨体をボディスラムで叩きつけ、さらには、コーナーポスト最上段からのミサイルキックを決めて見せるなど、藤波の怒濤の攻撃は凄かったです。
しかしホーガンは、それらすべてを受け切り、ジャンピング・ニーアタックやブレーンバスター、ショルダーブロック、エルボードロップ、最後は、あの新日本プロレスを離脱したスタン・ハンセンのウェスタン・ラリアートを改良したと言われる新兵器、肘斧爆弾、アックスボンバーを決めたホーガンが9分57秒、体固めで完勝、藤波は十番勝負2戦2敗となりました。
藤波は、何としても「飛龍十番勝負」で初勝利をあげたく、元日のバックランド戦が、不本意に終わっていることも意識して、積極的に攻めていきました。しかし最後のアックスボンバーは、ホーガンの最高の決め技となった。この試合での藤波が、最初の犠牲者になった訳ですが。当時はウェスタンラリアート(ハンセンの技と同名)とか「ホーガン・ハンマー」とか呼ばれていました。
ちなみに、月刊「ビッグレスラー」誌は「マックス・ボンバー」と報道していました。
ホーガンのアックスボンバーについて記者から質問された藤波は「ハンセンのウェスタンラリアートと似てるね。ただあっちは胸のあたりを丸太でバシーンとひっぱたかれる感じ。こっちは、胸や喉といっしょに、曲げた腕が顔にもあたるんだよね。人がやられるところを見てるとかわせそうなんだけど、 ラリアートもこれも、速いんだよね。試合の最初のころだったら、かわせる自信があるけど、ちょうど一番疲れたころを見計らってくるから、やられちゃうんだ。もっともあのでかいのが走ってきて、カウンターでヒットさせるんだから、少々かわしたところで、効き目はかわらないんじゃないの。」とコメント。
ヘビー級でも小柄な藤波が圧倒的な体格差に完敗、技術ではどうにもならない壁が存在することを見せつけられました。
【正解解説】1週間後にアントニオ猪木vsストロング小林の世紀の大一番を控え、レフェリーはこの年の1月に国際プロレスの「新春パイオニア・シリーズ」に現役レスラーとして参戦した清美川、サブレフェリーは国際プロレス、新日本プロレスで活躍、猪木、小林両方とタッグを組んでいた豊登と決定していました。
NETの放送が始まる前までは新日本プロレスのリングに上がっており、猪木とは縁の深い豊登はともかく、主審を務める清美川はこれまで新日本プロレスとはビジネス上の接点がなかったですが、小林とは国際プロレス時代に西ドイツ・ハノーバーで一緒だった仲、国際プロレスを離れるにあたり、所属選手には言えない相談をフリーランスの大先輩である清美川にしていたと思われ、清美川が黒幕として動いていたことはほぼ確実でしょう。
清美川は本名佐藤梅之助、1917年1月5日秋田県平鹿郡十文字町(現在の横手市)出身の当時57歳。大相撲廃業後に入婿の形で結婚し、大橋梅之助が本名となったが後に離婚、佐藤姓に戻しています。
同郷の幡瀬川を頼って伊勢ヶ濱部屋に入門し、1934年1月場所で初土俵を踏む。当初の四股名は薩摩川。早くから有望視されるとともに順調に出世し、四股名を清美川と改名。38年1月場所に十両昇進、40年5月場所に新入幕を果たしました。42年5月場所には、12日目に昭和の大横綱と言われた双葉山を外掛けで倒し金星を挙げています。また、43年5月場所には、11勝4敗の成績で優勝旗手の栄誉に輝いている。美男力士として人気があったが家業を継ぐこともあり、1946年11月場所を最後に廃業。
53年にプロレスへ転向し、山口利夫とともに「全日本プロレス」(旧)を旗揚げ。54年2月には力道山がシャープ兄弟を招聘して開催した日本プロレス初のプロレス国際試合シリーズに参加しています。
55年からは熊本で活動していた木村政彦主宰の「国際プロレス団」に移籍、翌56年5月15日に木村とのコンビでラウル・ロメロ&ヤキ・ローチャ組を破り、中南米タッグ王座を獲得。
団体消滅後は、メキシコ、南米、アフリカ、ヨーロッパなど世界各地を転戦。アメリカのNWAトライステート地区では、戦前に活躍した日本人レスラーのキラー・シクマこと志熊俊一にあやかり、トーゴー・シクマのリングネームで活躍、67年5月16日には横内と組んでジャック・ブリスコ&ゴージャス・ジョージ・ジュニアから同地区認定のUSタッグ王座を奪取し、10月7日にダニー・ホッジ&スカンドル・アクバ組に敗れるまで保持しました。
70年に14年ぶりに帰国し、国際プロレスに参戦。以後、当時ホームリングとしていた欧州マットと国際プロレスのパイプ役を担い、マイティ井上や鶴見五郎をドイツのハノーバー・トーナメントにブッキングする傍ら、自身も同トーナメントにおいて、66年、70年、73年と通算3回の優勝を果たしています(1970年はレネ・ラサルテスと同率優勝)
猪木vs小林戦のレフェリーを務めた後の清美川は新日本プロレスへの入団を希望するも叶わず。全日本女子プロレスのコーチも引き受け、ジャッキー佐藤とマキ上田のビューティ・ペアをトレーニングし、メインレフェリーとしても活躍。
おそらく、猪木vs小林戦の時に小林側として関わっていた阿部四郎の繋がりで全女のリングに上がるようになったと思われます。
全日本女子プロレスを退団後の78年には同じく全女を引退・退団した阿蘇しのぶらを擁し、女子プロレス団体「ワールド女子プロレス」旗揚げを画策。旗揚げ戦のポスターに自身も登場するなどしましたが、諸事情により旗揚げ前に頓挫しています。
翌79年には「ニューワールド女子プロレス」の旗揚げに参画しますがこちらも1シリーズを行なったのみで解散となりました。
80年10月13日、静岡県内の病院にて脳卒中のため死去。享年63歳でした。
※対戦成績は381戦60勝321敗、勝率157。
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