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2025年04月24日06:50

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【特別編】前田日明のYouTubeにおける問題提起について(11)

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00年、ミレニアムに起きた全日本プロレスの内部分裂騒動ですが21世紀に突入した翌01年以降もこの傾向は収束に向かうことはなかったです。

01年は前00年11月に新日本プロレスを解雇された橋本真也が1月4日東京ドームで今回の解雇騒動で対立した長州力と「遺恨凄惨」と題したシングルマッチで対戦しましたが、立会人であるこ藤波辰爾新日本プロレス社長が試合をストップ、これが有名な「ドラゴンストップ」ででした。

一方 、前00年10月9日東京ドームで全日本プロレスの川田利明とのシングルマッチに敗れた佐々木健介は今回のドーム大会を前にIWGPヘビー級王座を返上。この日ワンナイト王座決定トーナメントが開催され、決勝戦で川田をノーザンライトボムからの体固めで破り王座返り咲きを果たしています。

橋本は新日本プロレスから完全独立し新団体ZERO-ONEを設立、橋本は前00年12月23日ノアの有明コロシアムでのビッグマッチに参戦、大森隆男を垂直落下式DDTで破りました。

当初橋本の「プロレスリングZERO」は新日本プロレスの衛星団体、頓挫した藤波のドラゴン・ボンバーズ、平成維震軍のような団体内独立と考えられていましたが、橋本は三沢光晴のノアと接触、現場監督の長州と永島勝司ラインは馬場元子社長の全日本プロレスとの提携を進めており、橋本の行動が会社の方針に反するところから揉めてしまい解雇となってしまった訳です。

01年1月13日大阪府立体育会館のノアの大会に出場、提携関係にあった格闘探偵団バトラーツのアレクサンダー大塚と組んで三沢光晴&小川良成組と対戦、三沢がタイガードライバーでアレクにエビ固めでフォール勝ち。

試合後「三沢、次はシングルだ!」とマイクアピールする橋本に三沢がマイクを持ち、「橋本、次はあんのか、コノヤロー!」と応戦しシングルマッチに繋げたい橋本を嗜めるようなアピール。直ぐに成果を欲しがる闘魂・猪木の遺伝子を持つ橋本と相手の出方を待つ王道・馬場の遺伝子を持つ三沢の違いが明確に出た一戦でした。

ノアの小橋建太は全日本プロレスを退団してからノアを旗揚げするまでの期間でムーンサルトプレスによる膝へのダメージから手術をして旗揚げ戦に臨みましたが、長年の酷使によるダメージは深く、1月18日後楽園ホール大会を最後に膝の再手術を行うべく欠場、欠場は1年以上の長きに亘りました。四天王プロレスによるダメージは小橋の身体を蝕んでいくことになります。

1月28日全日本プロレス東京ドーム大会は馬場三回忌興行として行われ、82年1月に全日本プロレスに移籍以来、約19年の間、トップ外国人の座に君臨していた「不沈艦」スタン・ハンセンが51歳で引退セレモニーを行なっています。

ブレーキの壊れたダンプカーと呼ばれた猪突猛進のブルファイトは日本のファンのハートをガッチリと掴み、100回以上にも及ぶ来日(医師である日本人女性と再婚し日本に住んでいた時期もある)を数えたハンセンでしたが長年、身体に蓄積されたダメージは大きく、引退となったものです。ハンセンは引退後、身体のあちこちにに障害が出て、手術を複数回行い、日本で稼いだファイトマネーの大半を治療費に費やし、資金は残せなかったとのことです。

全日本プロレスの東京ドーム大会に武藤敬司が出場、マウナケア・モスマン改め太陽ケアとシングルで対戦、初公開となるシャイニング・ウィザードを決めて足4の字固めでギブアップ勝ちをしています。武藤のアメリカンナイズされたプロレスは馬場元子社長のお眼鏡に叶い、全日本プロレスにレギュラー参戦するようになっていきました。

3月2日両国国技館で橋本の新団体ZERO-ONEが旗揚げ戦を行い11,000人超満員札止め発表の大観衆を動員。スカパーによるPPVのゲストには同じ闘魂三銃士の武藤が登場。橋本以外の旗揚げ戦所属レスラーは新日本プロレスを退団した大谷晋二郎、高岩竜一、前00年にコンプリート・プレイヤーズの邪道、外道、中山香里と共にFMWを退団していた田中将斗、大阪プロレスを退団した星川尚浩。

メインイベントは橋本&新日本プロレスの永田裕志組vs三沢&秋山準組で19分10秒、三沢が橋本の後頭部にエルボーを打ってから投げっ放しジャーマンを決めて片エビ固めでフォール勝ち。試合後、会場に来ていた小川直也と三沢が乱闘となり、橋本はしてやったりの表情でしたが、三沢が「お前達の思うようにはさせないよ、絶対!」とマイクを掴んでアピールし、この流れには乗らないことを示唆しています。

リング上で起きた遺恨やアクシデントを次の商売に結びつけようとした橋本は猪木、新日本であり、それをよしとしなかった三沢は馬場、全日本であると言えます。ZERO-ONEとノアはZERO-ONEの次の4月18日日本武道館大会で一旦、協力関係がリセットされました。

4月8日日曜日深夜2時50分より日本テレビによる「プロレスリングノア中継」が30分枠で放送開始。前00年6月21日に「全日本プロレス中継」の放送が終わった後は、元阪神タイガースの掛布雅之をキャスターとしたプロレス・格闘技情報番組「コロッセオ」が中継ぎ番組のような感じで放送されていましたが、ノアは旗揚げ8か月で地上波放送を手に入れた訳です。

4月15日には有明コロシアムで団体の看板タイトルとなるGHCヘビー級王座決定トーナメント決勝戦が行われ、三沢が高山善廣を破り初代王者となっています。

総合格闘技進出を考えていた高山はフリーとなりPRIDEのリングに登場、5月27日横浜アリーナでの「PRIDE14」に初参戦し元新日本プロレスで当時猪木事務所所属だった藤田和之と総合ルールで闘い、肩固めで敗れています。

6月8日全日本プロレス日本武道館で武藤が天龍源一郎をムーンサルトプレスで破り、新日本プロレス所属として初の三冠ヘビー級王座を獲得。武藤は全日本プロレスのリングに「出向」する形でエースの座に君臨しました。 

ZERO-ONEは秋のリーグ戦として「火祭り」を開催しましたが、ZERO-ONEが起ち上げたもう一つのイベント「真摯」へのマーク・ケアー招聘について協力関係にあった猪木を激怒させてしまい、石川雄規以下バトラーツ勢が不参加となっております。

ファンは橋本、大谷の味方が多かったです。撤退したバトラーツはヒールイメージがまとわりついて観客動員に苦戦し98年11月23日に両国国技館に初進出した勢いは既になく、01年一杯で活動休止に追い込まれています。

00年に旗揚げした三沢のノア、01年に旗揚げした橋本のZERO-ONEはスタートは順調でした。ノアは「理想の団体」としてこの後低迷していった新日本プロレスに代わり業界の盟主となりましたが05年7月18日東京ドーム大会をピークに人気は下降していきました。

ZERO-ONEは遊び心満載で両国国技館大会は毎回満員になりましたが橋本のコンディション不良もあり03年7月の両国大会以降は下り坂になっています。

若きトップレスラー兼経営者がいづれも40代の若さで早逝しているのはテレビに頼れない時代の団体経営の厳しさ、タニマチとの接待漬けによるコンディション調整不足。その状態で毎日リングに上がる、という悪循環がもたらしたことと無関係ではないと思いますが、これについては順を追って書いていきます。

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