前回(2)の終わりで触れました全日本プロレスの「四天王プロレス」三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の4選手による激しいプロレスは「カウント2.99」という言葉を産み出し、極限まで闘うプロレスとして「聖戦」とまで言われ、90年代の代表的なプロレスのスタイルとなりました。
全日本プロレスがハードヒット路線に転換したのは87年に長州力らジャパンプロレス勢の大部分に去られ、再び日本人対外国人の図式に戻った時、天龍源一郎が「ジャンボの背中は見飽きた、輪島のお守りは疲れた」と、国際血盟軍でくすぶっていた阿修羅・原を引き込み「全日本プロレス活性化の為」に決起、馬場了承の元、反体制派として天龍同盟を結成、本隊に牙を剥いた時からです。
手加減しない顔面蹴り、喉元に入れるチョップ、同年11月7日後楽園ホールでの輪島大士と天龍のシングルマッチは凄惨な展開となり、天龍の猛攻で場外で立てなくなってしまった輪島はリングアウト負けを喫しました。
この12日後、前田は11月19日新日本プロレス後楽園ホールでの長州&マサ齋藤&ヒロ齋藤組vs前田日明&木戸修&高田伸彦(延彦)組の6人タッグマッチで背後から長州の顔面をハイキックで蹴る「顔面蹴撃事件」を起こし、翌88年3月に新日本プロレスを解雇されてしまいます。
後日前田は顔面蹴撃事件に対して天龍の輪島に対する顔面蹴りを引き合いに出して「アレをやられたら自分達の存在価値がなくなるという危機感からやったもの」としていますがこれは後付けでしょう。
天龍は90年4月26日で全日本プロレスを「円満退社」し5月10日にSWS移籍を発表しますが、他に谷津嘉章、ザ・グレート・カブキ、高野俊二、仲野信市、高木功、サムソン冬木、北原辰巳(光騎)、折原昌夫、フリーの鶴見五郎、海野宏之レフェリー、米沢良蔵渉外部長が時間差はあれどSWSに大量移籍しました。
6月8日日本武道館では鶴田の対戦相手としてタイガーマスクのマスクを脱いだ三沢が抜擢され、鶴田のダイビング・ボディアタックを切り返して上になりフォール勝ち。
以後は鶴田、田上、渕正信らの正規軍に三沢、川田、小橋、菊地毅らの超世代軍が挑む展開となり、覚醒した怪物・鶴田が情け容赦ない攻撃を一回りも二回りも身体のサイズが違う超世代軍に見舞い、これに立ち向かう超世代軍との抗争に人気が大爆発、後楽園ホールはチケットが抽選となり、超豪華外国人を呼んでも長州らジャパンが来ても超満員にならなかった日本武道館大会は毎回超満員となりました。
ジュニア・ヘビー級の菊地は鶴田の拷問コブラ、逆エビ固めをマトモに受け、ジャンピング・ニーパット、バックドロップなどの大技を食らい続けてパンチドランカーのようになり呂律が回らなくなっていきます。
92年に鶴田が肝炎により第一線を退き、8月22日日本武道館で三沢がスタン・ハンセンを破り三冠ヘビー級王座を獲得、全日本プロレスの頂点に立つと川田は93年5月に鶴田のパートナーを務めていた田上とタッグを組み「聖鬼軍」を結成、5月21日札幌中島体育センターでは三沢がハンセンを、川田がスティーブ・ウイリアムスを、小橋がテリー・ゴディを、田上がダニー・スパイビーをそれぞれ打ち負かし「四天王」時代が幕開けすることになりました。
同年7月29日日本武道館での三沢vs川田の三冠ヘビー級選手権試合はフィニッシュに三沢は投げっ放しジャーマン・スープレックス3連発を見せており、川田は完全にグロッキー状態になってしまいました。
外国人レスラーでもウイリアムスが使うデンジャラス・バックドロップ(バックドロップ・ドライバーという表記の文献もあり)は脳天から後ろに落とす危険極まりない技で、同年8月31日愛知県豊橋市総合体育館で行われた小橋との三冠ヘビー級王座次期挑戦者決定戦のフィニッシュで見せた一撃は衝撃的でした。
この一戦で勝利したウイリアムスが同年10月23日日本武道館で三沢の三冠ヘビー級王座に挑戦しましたが、この時の決まり手が回転エビ固めで三沢がフォール勝ちした為、観客席が沸かなかった事実があります。やはり観客の要求も次第にエスカレートしていった訳です。
三沢の危険な角度で落とすタイガードライバー91、後頭部を貫くエルボー、川田の顔面蹴り、小橋の剛腕ラリアット、田上の喉輪落としなど大技はエスカレート、95年3月21日後楽園ホールでの「チャンピオン・カーニバル」開幕戦では田上がエプロンで小橋を喉輪落としに捕らえて場外のマットに叩きつける断崖式(奈落式とも呼ばれる)喉輪落としを初披露、行き着くところまで行った感じでした。
連載(1)で書きましたクリス・ブルックスvs高梨将弘戦の概念と言える「信頼し合ってるからこそ、お互いに生命のやり取りが出来る世界観」なのが四天王プロレスだったと言えます。
日本プロレス界でメジャー、インディー、U系、女子プロレスが共存共栄していた時代のピークがいつだったかと言えば私はちょうど30年前の95年だと思います。
95年は4月2日東京ドームで、週刊プロレスの発売元、ベースボール・マガジン社が全13団体を集めたオールスター戦「夢の懸け橋〜憧夢春爛漫〜」を開催。各団体提供試合という形が取られ、60,000人の大観衆を動員しました。
カリスマ編集長ターザン山本が最も勢いがあった時期で最盛期は公称40万部を売上げており、「活字プロレス」は若い読者を虜にしています。ターザンに関しては当時から悪く言う人も多かったですが、数字を作ったということでは勝者だったことは間違いないです。
新日本プロレスは4月に初の北朝鮮遠征を行い、10月9日には東京ドームでUWFインターナショナルとの全面戦争を実現させ67,000人というドーム大会の記録を打ち立て、メインイベントでは武藤敬司のIWGPヘビー級王座に高田延彦が挑戦した頂上対決が行われ、16分16秒、武藤がドラゴンスクリューからの足4の字固めでギブアップを奪いました。
結果的にUWFインターナショナルは団体として息の根を止められたことになった訳です。
FMWでは前94年5月5日川崎球場で天龍との電流爆破マッチに敗れた大仁田厚が1年間に及ぶ引退ツアーを行った後、5月5日川崎球場でのハヤブサ戦で引退。
5月17日埼玉県深谷市民体育館から新生FMWがリニューアルスタートしましたがテレビ出演で全国区人気だった大仁田の抜けた穴は大きく、地方大会では苦戦が続きました。
新団体は3月16日横浜文化体育館でNOWの後継団体としてグレート小鹿を社長に大日本プロレスが旗揚げ。大日本プロレスは現存するSWS系唯一の流れを組む団体です。
4月15日後楽園ホールでは長与千種が設立したGAEA JAPANが旗揚げ戦を開催。既存のレスラーは長与以外では元全日本女子プロレスのKAORU、ボンバー光(村光代)の3選手だけで後は植松寿絵、里村明衣子、加藤園子、永島千佳世、佐藤季恵(シュガー)、成田舞子(引退)の「驚異の1期生」が売りでした。所属選手が足りない分は提携先であるJWPからレンタルしていました。
谷津嘉章のSPWFの後継団体として高田龍が代表となったレッスル夢ファクトリーが3月に旗揚げ。年末には関西の芸能大手吉本興業が女子プロレスに参入したJd(吉本女子プロレス)が12月24日大阪・ベイサイドジェニーで旗揚げ、全日本女子プロレスOGのジャガー横田、バイソン木村、白鳥智香子、李由紀らが参戦、女子プロレスはFMW女子部を除き(IWAジャパン、大日本プロレスにも女子部があった)5団体となり、さらなる分裂、細分化がされていったことになります。
96年以降は日本プロレス界は徐々に下り坂になっていきました。(この項続く)
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