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2024年11月23日10:34

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ジャンボ鶴田怪物伝説(999)

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88年7月16日(現地時間)プエルトリコ・バイヤモン球場のシャワールームでブルーザー・ブロディが刺されるという衝撃的な事件が発生しています。

86年11月の新日本プロレス「ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦」で2度目のボイコット、来日キャンセルをしたブロディは新日本プロレスから永久追放されました。

日本での職場がなくなったブロディ。裏切った人間を二度と使わないことを信条にしていたことで知られていた馬場ですが87年、全日本プロレスのブッカーをしていたザ・グレート・カブキが当時は全日本プロレスとは関係が切れていたものの、ブロディを新日本プロレスにブッキングし、彼が唯一信用していたプロモーターと言っていいフリッツ・フォン・エリック(ジャック・アドキッセン)にコンタクトを取りブロディの全日本プロレス復帰を打診しました。

当時、長州軍団が全日本プロレスを飛び出して新日本プロレスにUターンしたことで新日本プロレスには「貸し」があったことからブロディと併せて同じく新日本プロレスに移籍したアブドーラ・ザ・ブッチャー、ジミー・スヌーカの全日本プロレスへの復帰が実現、新日本プロレス側もこれを了承。マスコミは「馬場の恩赦による復帰」と書き立てています。

ブロディは87年10月4日茨城県鹿島町立体育館での「創立満15周年記念ジャイアント・シリーズ」序盤戦から全日本プロレスに復帰。この時は1週間程度の顔見世的特別参加でしたが次の「世界最強タッグ決定リーグ戦」にはブロディ、ブッチャー、スヌーカの3選手が揃いました。

やはり、長州軍団は新日本プロレスが似合い、外国人勢は全日本プロレスがピッタリはまっている感じで、本来あるべき姿に戻った、という感じです。

ブロディが全日本プロレスに戻る決意をした理由は株取引をして大損をしたということで金が必要となり馬場に泣きついたという話もありましたが、ビンス・マクマホンによるアメリカマットではWWFの全米侵攻の影響でローカルテリトリーの休廃業が相次ぎ、フリーランスだったブロディの職場が少なくなってきたのも事実でした。

全日本プロレスに復帰したブロディは「世界最強タッグ決定リーグ戦」に6年ぶりにスヌーカとタッグを組んで参戦、11月22日後楽園ホールではかつて「超獣コンビ」を結成していたスタン・ハンセンと対戦、ハンセン&ゴディ組vsブロディ&スヌーカ組が実現、両チームリングアウトの無得点試合ながらど迫力の攻防で超満員の観客を大いに沸かせました。

88年3月27日日本武道館ではブロディは鶴田を17分7秒、キングコング・ニードロップからの体固めで破り、4年7か月ぶりにインターナショナル・ヘビー級王座に返り咲きを果たしています。

4月15日大阪府立体育会館ではPWFヘビー級、UNヘビー級二冠王者天龍源一郎とインターナショナル・ヘビー級王座を賭けた史上初の三冠ヘビー級王座統一戦を行い30分、両者リングアウトで引き分けていますが、真っ向勝負の末の両リンであり、観客からは不満の声が起きることはありませんでした。

4月19日仙台・宮城県スポーツセンターでは鶴田に20分34秒、バックドロップからの体固めでフォール負けを喫しインターナショナル・ヘビー級王座を明け渡しましたがあっさり「一本負け」を許しています。新日本プロレスへの移籍前だったら反則負けかリングアウト負け、あるいはフォール負けにせよ誰かの乱入によるアクシデントにしろなどと色々な注文をつけていたに違いありません。

プロモーターとトラブルを起こすトラブルメーカーとしての一面は影を潜め、全日本プロレスのブッカーだったカブキには絶大の信頼を置いていたことで、馬場も「ブロディは丸くなり扱いやすくなった」と周囲に漏らしていたそうです。

ブロディは海外ではアメリカの試合だけでは稼げないと判断したか、友人であるバック・ロブレイの口利きでプエルトリコの団体WWC(ワールド・レスリングカウンセル、カルロス・コロン代表)を主戦場にしていました。

日本では鳴りをひそめていたトラブルメーカーとしての顔をこちらでは出しておりWWCで売り出そうとしていたケンドー・ナガサキ&ミスター・ポーゴ組とタッグで対戦した際に、ブロディはナガサキ&ポーゴの良さを全く引き出させようとせず一方的に痛めつけてしまいました。

これにはWWCのコロン代表も激怒して抗議しましたが、ブロディは普段から週刊プロレス、週刊ゴングなど日本のプロレス媒体にも目を通しており、日本のファンにどう見られているかを過剰すぎる位気にしており、「この試合はジャパンのマガジンに載る、だからナガサキらに花を持たせるような試合は出来なかった、これは全日本プロレスのビジネス・マターなんだ」と我を押し通し、ブッカーだったホセ・ゴンザレスを困らせていました。ゴンザレスはその困惑が個人的な憎しみに変わっていってしまったのです。

日本のプロレス雑誌は現在でもバーバラ夫人がブロディの遺品として大切に保管しているといいます。 

ブロディとゴンザレス表向きは仲が良いといわれていましたが、実際は不仲で、ゴンザレスは地元プエルトリコではベビーフェイスのトップのポジションにいましたが、ブロディはゴンザレスを立てようとせず、セールもろくにしないで徹底的に痛めつけていました。

ブロディがゴンザレスを痛めつけた理由は身体の大きいブロディが体格の小さいゴンザレスにやられることは大きなイメージダウン、自分の商品価値が下がると考えていたからで、ブロディに一方的に痛めつけられたゴンザレスの憎悪は日増しに強くなるもゴンザレスはブッカーという要職におりブロディを使わざる得ず、自身に抱いていたブロディに対する憎悪の感情を懸命に押さえていたとのこと。

ブロディが刺殺される当日、ブロディはゴンザレスと共に車で会場入りし、ゴンザレスは代表であるカルロス・コロンと共同オーナーであるビクター・ジョビカと何やら話し合っていました。

ブロディが日本で儲けたギャラでWWCの株をビクター・キニョネスを通じて、WWCの共同オーナーの一人であるゴリラ・モンスーンから持株を買収することを持ち掛け、共同経営者になろうしていたことでコロンらこれに反対していました。

WWCは同じくプエルトリコを主戦場にしていブッチャーも出資して共同経営者になっており、ブロディもブッチャーに倣い共同経営者になろうとしていましたが、ブロディはプロモーターとトラブルを起こすトラブルメーカーでもあることから、経営にも介入するようになれば、何をされるかわからないとコロンら経営陣は懸念していました。

しかしコロンらはブロディに多額の借金をしており、ブロディは経営に参画できなければ借入金の即返済を求めていたこともあって、ブロディの株式買収は避けられない状況となっていました。

ブロディは株主になるにあたり、ウマの合わないゴンザレスをWWCから追放することを要求。コロンらからブロディの経営介入、自身の退陣要求の話を聞かされたゴンザレスは猛反発。ゴンザレスは3ヵ月前に3歳の愛娘を亡くしたばかりで精神的に参っていて、そこへ普段から憎悪を抱いていたブロディが自分をWWCから追い出そうと画策…。これが殺傷行為に至る動機、と言われています。

当日、バックステージでは愛娘を亡くしたばかりのゴンザレスの前でブロディは自分の愛息ジェフリー君の写真を持ちながら、ニュージーランド出身だったバーバラ夫人がアメリカ国籍を取得したこともあって上機嫌で家族の話をしていたといいます。ゴンザレスはブロディをシャワー室へ連れ出すと、ブロディは背後から腹や胸を刺されました。

同じ控室にいたトニー・アトラス、ダッチ・マンテル、TNT(サビオ・ヴェガ)が悲鳴を聞いて、ただちにシャワー室へ駆けつけ、コロンも駆けつけて馬乗りになって首をなおナイフで切ろうとするゴンザレスを壁際に押さえつけつつバックステージから出て行くきました。

しばらくして警官が駆けつけましたが警官はブロディが刺されたことをプロレスにおけるアングルだと思い込んでなかなか救急車を来ようとしない、誰かが無線で救急車をやっと手配され、意識が朦朧としていたブロディは戻ってきたコロンに「息子をよろしく頼む」と伝え、コロンは「オレが君の息子を守る」と答えました。

バックステージでブロディが刺されたことは、すぐ選手たちに広まりましたが興行は強行され、動揺した選手の中には泣き出す選手もいたそうです。

プロモーターのコロンや、加害者であるゴンザレスもインベーダー1号として何事もなかったように試合をした。ブロディは全日本プロレスの「スーパー・パワー・シリーズ」に参加していたダニー・スパイビーとの試合が組まれていましたが、カードは変更され、観客には何も事情説明すらなされなかったとのことです。

ブロディが刺されたことはテキサス州の自宅にいたバーバラ夫人にもコロンから伝えられ、バーバラ夫人は早朝にもすぐ現地に向かおうとしましたが、17日午前5時40分、出血多量の為、ブロディことフランク・ゴーディッシュは42歳で亡くなりました。

バーバラ夫人がブロディ死去の一報を聞いたのはプエルトリコの空港に着いてからで、プエルトリコに滞在していては危険と判断して、アメリカに帰国しようとしていたブッチャーが空港でたまたまバーバラ夫人と出くわすと、ブッチャーはブロディの死を伝え、バーバラ夫人は愕然とし涙を流しました。

死因はブロディは左肘や右手の指を2本骨折していたことから、数種類の鎮痛剤を常用しており、これらの薬物が出血多量を早めたとされたましたが、ブロディと一緒に救急車に同乗したアトラスによると、病院に着いてもプエルトリコでは刃物沙汰はいつものこととして医師はなかなか診ようとしないため、アトラスが医師の首根っこを捕まえてやっと診察させたが、その時点で病院に運ばれてから20分以上も経過し、手当が遅れたのが原因ということです。

同じ控室いたDマンテル、アトラス、TNTは警察からの事情聴取で全てを話したが、警察はアトラスらの供述はなぜか理解できないフリをして、ブロディはファンに刺されたものだとして事件を闇に葬るつもりでした。地元のレスラーであるTNTは警官に食い下がり、ゴンザレスが殺したと主張しました。

TNTはゴンザレスが日頃から「あの野郎、俺が殺してやる!」と公言していたことから、ゴンザレスはアクシデントではなく殺意を持ってブロディを殺したと確信していました。

Dマンテルを始めとしたアメリカ勢は興行をボイコットしてプエルトリコから立ち去りました。ナガサキと一緒に遠征に来ていた新日本プロレスの武藤敬司もその一人。TNTがアトラスに「ここにいては危険だ、今すぐ出ろ!」と助言していたからです。

7月18日にゴンザレスは第一級殺人罪と銃刀法違反で逮捕されますが、凶器として使用されたナイフは発見されず。ゴンザレスは保釈金を支払い翌日に釈放され、8月に裁判が行われる予定でしたが、なぜか延期され翌89年の1月20日に行われることになり、Dマンテルやアトラスも証人として出廷する予定でしたが何故か出廷しませんでした。

というのもプエルトリコの裁判所から召喚状が来たのは裁判が行われた翌日である89年1月21日で、これはつまり「来るな」ということ。

罪状は第一級殺人罪から業務上過失致死に引き下げられ、ゴンザレスは出廷せず、コロンが証言するのみで、否はブロディにあってゴンザレスの行為は正当であることを主張、裁判所はゴンザレスの正当防衛を認め、ゴンザレスは無罪放免となりました。

ゴンザレスがなぜブロディを殺したのか、取調の際に黙秘を続け動機は明かしていませんでした。これまでの経過を客観的に見ると、ブロディに対して以前からの憎悪を含めての鬱憤が溜まっていたのは事実でしたがプエルトリコの裏社会に通じているコロンが司法に手を廻して全て闇に葬ってしまい、ゴンザレスだけでなくコロン自身も真相を口にすることはありませんでした。
 
私がブロディの死を知ったのはおそらく7月18日の夜、社会人生活3年目、営業に出て1年ようやく経った頃でペーペーの下積み時代もいいところ。朝8時から夜は22〜23時はザラで、残業中の先輩達と自分の夜食(もちろん自腹、割り勘)を買うパシリとして墨田区押上のミニストップに行った際、コンビニにねじ込まれていたスポーツ紙を見て知りました。

インターネットがない時代で、衝撃のあまり仕事にならず落胆して帰宅、宅配で取っていた「東京スポーツ」を読んで事件の詳細を知りました。

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