大腸癌の手術という大病を経て、93年2月6日千歳市スポーツセンターで急拠のカード変更により、8か月ぶりに試合復帰を果たした小林邦昭さん。「ファイティング・スピリット93」最終戦の2月16日両国国技館では最初からカードが組まれ、青柳政司と組んでレイジング・スタッフのスーパー・ストロング・マシン&後藤達俊組と対戦、8分21秒、マシンのダイビング・ヘッドバットからの体固めで小林邦さんがフォール負けしています。
反選手会同盟は新日本プロレスの会社的には本隊と敵対するヒールユニットの位置づけでしたが、大将の越中詩郎を初め、基本みんな「武骨だがいい人」であり会社から冷遇されているメンバーの集まりとあってベビーフェイス的にファンに愛され、93年6月25日後楽園ホールでは初の「反選手会同盟主催興行」が開催されました。
小林邦さんは第1試合でWARの北原光騎とシングルマッチで対戦、壮絶な死闘の末20分23秒、北原の胴絞めチョークスリーパーの前にレフェリーストップ負けを喫しています。
93年8月8日両国国技館では小原道由が本隊を裏切り反選手会同盟入り。10月には後藤達俊が加入、11月16日にユニット名を「平成維震軍」に変更しました。後藤達と小原の強面2人が加わったことでユニットのカラーが大分変わったような気がします。
平成維震軍は新日本プロレスの団体内独立ユニットとして94年11月13日東京ベイNKホールで旗揚げ興行を行い、5,000人超満員発表の大観衆を動員。
小林邦さんは第4試合で彰俊と組んでWAR冬木軍の冬木弘道&邪道組と対戦、17分17秒、冬木の冬木スペシャル(ストレッチプラム)の前に小林邦さんがギブアップ負けを喫しました。
95年9月26日駒沢オリンピック公園体育館で行われた初代タイガーマスクの佐山聡が主宰のシューティング(プロ修斗)のリングで12年ぶりに宿命のライバル、佐山と再会しています。
試合はエキシビションマッチで佐山はタイガーマスクのマスクを被って入場、互いに黒のタンクトップ、黒のグローブを着用。オクタゴンのリングに上がったらマスクを脱いだ佐山でしたが、相対している小林邦さんの顔を見たら懐かしくなったか、ニコニコ笑いながらマスクを再び着けた佐山。
初代虎戦士と虎ハンターの顔合わせはファンにはたまらない顔合わせ。初代タイガーマスクとしての対決はここまで。再度マスクを脱いだ佐山はアップライトから軽いパンチとキックのコンビネーションからソバット、小林邦さんも軽快なリズムからパンチ、蹴りを繰り出していきました。
しかし小林邦さんが腰を落としてやや前屈みになったところへ佐山の左ハイキックが炸裂!これが小林邦さんの顎にモロに入ってしまい、大の字になって失神、担架で搬送されてしまいました。アクシデントでしたが、佐山の性格からして全く「その気」がなかったとは考えにくい部分もあるのは確かです。佐山程の達人なら小林邦さんが前屈みになった瞬間にミドルやローに切り返ることも出来たはず…。
意識を回復した小林邦さんは「せっかくの大舞台なのに、佐山に申し訳ない…」とポツリ。この事件が新日本プロレスと修斗でモメることのないよう「不甲斐ない自身の責任」として収めてしまったのでした。エキシビションと言えど一旦リングに上がればKOされても文句は言えない、プロレスラーの矜持を感じました。
両者の対戦は、これでもう終わりかと思わせましたがこの年の12月30日大阪城ホールで行われた「突然卍固め-INOKI FESTIVAL-」で早くも再戦が実現。
こちらは3分5ラウンド制ではありますが、通常のプロレスルールで初代タイガーマスクもフライング・クロスアタックなどプロレス技を披露、5ラウンドを闘って14,500人超満員発表の大観衆を熱狂させました。
小林邦さんは試合後、「3代目(金本浩二)、4代目(当時みちのくプロレス、現新日本プロレス)と出てきたけど、全ての道は初代に通じるっていうか、蹴りが凄いね。動きは同じ。少し太ったぐらい。13年経って、よくあんなにできる。1年離れたら、ああいう動きができないよ。50年、100年に1人の天才だよね。チャンスがあれば東京あたりでもう1回やってみたい。ファンには、まあタイガーらしい動きは見せられたんじゃないかな。」
とコメントしています。初代タイガーマスクはこの試合を契機に翌96年には石川孝志の東京プロレス、UWFインターナショナルなどのリングに上がり、プロレス活動を再開していくことになる訳です。(この項続く)
ログインしてコメントを確認・投稿する