全日本プロレスとの興行戦争ですが、全日本プロレスは新日本プロレスより17日早い1月22日、諏訪湖スポーツセンターで「新春ジャイアント・シリーズ」が閉幕。
それから3週間のオフを経て、2月14日、沖縄市体育館から「エキサイト・シリーズ」が開幕。ディック・マードック、キラー・トーア・カマタ、ドスカラス、カリプス・ハリケーン、ドクトル・ワグナー、ジョニー・バリアント&ラリー・バリアント(ガイ・ミッチェル)、リック・マーテルの外国人が参加。
ドスカラスは2度目の単独来日で日本陣営に入っての参加。沖縄、奄美諸島、九州をサーキットした後西日本から関東に戻るコースで、3月5日、黒磯市公会堂が最終戦。
新日本プロレスの「ビッグ・ファイト・シリーズ」とニアミス興行は地方ではなく、後楽園ホールが3月2日で新日本プロレスの2月29日と中1日での開催となります。
国際プロレスの「スーパー・ファイト・シリーズ」第2戦が2月24日、後楽園ホール大会が予定され、1週間で3団体が後楽園ホールで興行を開催することになります。
「エキサイト・シリーズ」は3週間に16戦の短期シリーズで、それから3週間のオフを経て、3月28日、熊谷市民体育館から、春の本場所「第8回チャンピオン・カーニバル」が開幕。
78、79の両年は3月初め〜4月初めにかけて開催していましたが、3年ぶりに4月にメイン開催。前年度優勝者アブドーラ・ザ・ブッチャー、テリー・ファンク、ディック・スレーター、テッド・デビアス、レイ・キャンディ、ミステリアス・アサシン(ボビー・ジャガーズ)、カール・ファジーの外国人レスラーが参加。さらにシリーズ終盤戦には前79年12月13日、蔵前国技館での世界最強タッグ決定リーグ戦でブッチャーと仲間割れしたザ・シークが特別参加。
大阪府立体育会館は新日本プロレスが先攻の4月2日、全日本プロレスは後攻で4月18日。後楽園ホール大会は3月30日、4月19日、最終戦(追加発表)の5月2日の3回開催。優勝決定戦は5月1日、福岡九電記念体育館で開催されます。
「第8回チャンピオン・カーニバル」の後楽園ホール3大会と福岡は新日本プロレスの次期「第3回MSGシリーズ」の開幕戦4月25日、後楽園ホールと5月9日、福岡スポーツセンター大会と比較した方が公平かと思います。
全日本プロレスも80年に入ってレスラーの異動がありました。前79年8月の「ブラック・パワー・シリーズ」に一緒に帰国した高千穂明久と佐藤昭夫。両者はアメリカに家族がいた為、長期の定着は難しい部分はあったものの、高千穂は79年の暮れにアメリカに戻り、佐藤は試合で首を負傷、日本で治療していましたが回復せず、1月末にアメリカに戻りました。
79年10月の「ジャイアント・シリーズ」に2度目の海外武者修行から凱旋帰国した天龍源一郎は、帰って来てみると、海外修行中に全日本プロレス本隊入りしたタイガー戸口(キム・ドク)よりも番付は下で、11月8日、後楽園ホールで高千穂と組んでグレート小鹿&大熊元司組極道コンビのアジア・タッグ王座に挑みましたが、極道の老獪な試合運びの前に2本取られて敗退。次の「世界最強タッグ決定リーグ戦」にもエントリーさせてもらえず。
自分でも納得いくファイトが出来なかったか、「新春ジャイアント・シリーズ」が終了すると3度目のアメリカ武者修行に出発しています。
中堅レスラーで国際プロレスから移籍の肥後宗典(本名・本郷篤)が1月23日、婦女暴行容疑で逮捕されています。当時の記事によると、肥後は前79年12月13日、「世界最強タッグ決定リーグ戦」蔵前国技館大会の行われた日の深夜、自宅前で知人女性に「上がって茶でも飲んで行かないか」と声掛けし、女性が断ると強引に自宅に連れ込んで性的暴行を加えたとの容疑。
1月23日は馬場の満42歳のバースデーに当たり、馬場にはとんだバースデープレゼントになってしまった訳ですが、かなり後日になってから、肥後は「美人局」(つつもたせ)に嵌められたという話が出てきて真相は闇の中です。いずれにせよこの一件で肥後は全日本プロレスを解雇、引退となる訳ですが、当時、全日本プロレスからこの件に関する発表はなし。
2年前のサムソン・クツワダ同様、闇から闇に葬り去られてしまいました。
新日本プロレスから引き抜かれ、75年10月30日、蔵前国技館での馬場との一騎討ちから全日本プロレスにレギュラー参戦していた大木金太郎ですが、2度に亘りインターナショナル・タッグ王座を獲得したドク(戸口)との「韓国師弟コンビ」も解体させられ、前79年にはブッチャー、シーク、カマタらとタッグを組まされ、ヒールファイトをやっていましたが、
2月18日、高田馬場BIG−BOXで記者会見が行われ、国際プロレスヘの入団が発表されています。外敵としてフリー参戦するのではなく「入団」でした。
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