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2023年04月12日05:26

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週プロ流智美あの日あの時予想2022年総括(42)

第259戦、10月19日発売号●【予想】全日本プロレス旗揚げシリーズに参加の外国人レスラー達が来日(72年全日本プロレス羽田空港)【正解】鶴田をめぐり、大相撲界とプロレス界が争奪戦、スポーツエリート、鶴田の去就(72年)【参考】2016年10月19日発売号は日本テレビ「全日本プロレス中継」6年半ぶりゴールデンタイム復帰、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組vsアニマル&ホーク ザ・ロード・ウォリアーズ、鶴田vsリック・フレアー、長州力vsリック・マーテル、天龍源一郎&タイガーマスク組vsミル・マスカラス&チャボ・ゲレロ組(85年全日本プロレス後楽園ホール)

【予想解説】これまで、本連載では何度か書いて来ていますので重複部分は一部割愛致しますが、前71年12月に猪木が会社乗っ取りを企てたクーデター犯として日本プロレスを除名・追放処分となり、自局のエースに去られたNETはエース馬場のNET登場を強く要望。先発の日本テレビとの約束の最重要項目であった「馬場の試合はNETでは放送させない」という禁を破りました。

馬場が4月3日放送の「ワールドプロレスリング」からついに登場、新潟市体育館からの生中継で馬場&坂口征二組vsディック・マードック&マイティ・ブルータス(ザ・ブルート、バグジー・マグロー)組が放送され2−0で馬場&坂口組が勝利。

これに激怒した先発局の日本テレビは5月12日、東京体育館での「第14回ワールド・リーグ戦」優勝決定戦、馬場vsゴリラ・モンスーン(2−1で馬場の優勝)の生中継を最後に54年2月19日、蔵前国技館での力道山&木村政彦組vsベン&マイクのシャープ兄弟戦から続いた18年に亘るプロレス中継を打切ました。

一方、日本テレビでは「プロレスは創業者である故・正力松太郎さんの遺産、番組から消してはならない」と小林與三次社長命令で「力道山ゆかりの日本プロレスの正統の後継者は馬場だ。馬場を中心に新しい団体を起こして放送する」と運動部長だった松根光雄(後の全日本プロレス社長)、原章プロデューサーが動き馬場に独立を促し、馬場もこれに乗り気でした。

日本テレビが長年プロレスを放送してきた「金曜午後8時」はNETが横取り、7月28日、後楽園ホールでの「サマー・ビッグ・シリーズ」開幕戦から、NETは従来の毎週月曜午後8時からのワールドプロレスリングに加え、毎週金曜午後8時からの「日本プロ・レスリング中継」が加わり、1週間2回放送になりますが、これは一時的なもので、番組改編期の10月6日からは金曜午後8時1回になります。

開幕戦の後楽園ホールでは馬場は初来日のキラー・ジョー・ノボ(ブッチャー・ブラニガン)とシングルで対戦し2−1で勝利。

翌日の7月29日、東京・赤坂プリンスホテル有明の間で馬場が記者会見をおこない、日本プロレスに辞表を提出、フリーとなることを宣言しました。

突然の発表に記者団にも「信じられない…」といった空気が流れ、その頃、代官山の日本プロレス事務所では芳の里社長、吉村道明取締役、坂口征二、大木金太郎、グレート小鹿らが呆然自失となっていました。

馬場が会見で語った独立の理由のポイントは2つあり1つは日本のプロレスと切っても切れない深い関係がある日本テレビと離れてプロレスをやるのは釈然としないということ。もう1つは現在の日本プロレスに所属していたのでは自分の理想としているプロレスを実行することができないので、自由な立場で可能性を追求したいということ。馬場はNETで放送される試合への出場に不満を持っていたと言われ「日本テレビのブラウン管に出るべく、日本プロレスを離れる」と決意した、というものでした。

「サマー・ビッグ・シリーズ」は開幕したばかり。「日本プロレスのシリーズの参加はどうするのか?」という記者からの質問に対し、馬場は「興行を買ってくれているプロモーター、ファンに迷惑はかけられない」と出場を約束。

7月28日がシリーズ開幕戦、29日がオフであり、30日から日本プロレスは九州、奄美大島、鬼界ヶ島など列島を廻る巡業に出るため、この貴重なオフの1日をターゲットにして会見場を押さえていたというのは馬場の強かさを感じます。

日本プロレスに残る先輩、後輩レスラーを考えると気まずい雰囲気での巡業参加になったとは思いますが、猪木同様、馬場も相当な「胆力」の持ち主だと言えます。

30日は坂口の地元、福岡スポーツセンター(テレビ収録)大会でメインは坂口がベポ・モンゴル(ニコリ・ボルコフ)を大流血戦の末反則含みながら2−0でストレート勝ちしUN王座2度目の防衛を果たしていますが、馬場はセミファイナルで小鹿と組んでミル・マスカラス&ジミー・バリアント組を2−1で降しました。

シリーズ最終戦は8月18日、宮城県石巻市総合グラウンド、馬場は大木と組んでジート&ベポのザ・モンゴルズを2−0のストレートで降して日本プロレスから離れました。

一方でリング外の動きは風雲急を告げています。7月31日、麹町の日本テレビで行われた放送記者会で松根光雄運動部長が「10月からプロレス中継を予定している。主役は馬場で、毎週土曜日の夜8時〜9時のゴールデンタイムという方向で進んでいる」と具体的放送時間を明らかにしています。

8月14日午後、代官山の日本プロレス事務所内で芳の里淳三代表と馬場の会談が行われましたが、日本プロレス側から馬場を引き留めるための具体的な提案がなく、10分程度の話し合いで馬場は会社を後にしました。

馬場は、保持していたインターナショナル選手権のベルトに関して「これは俺のベルト、持って出ていく」と宣言。芳の里代表は「冗談じゃない、インターナショナル王座は日本プロレスリング・コミッショナーが認定し我々日本プロレスが管理しているベルト、馬場がどうしてもベルトを持っていくというなら、大木金太郎と闘って勝って持っていけ」と反論。もし両雄闘えば、決戦の舞台は9月6日、田園コロシアムが有力候補として挙げられています。

8月24日、22日に平井義一(衆議院議員)日本プロレス協会会長から提示された調停案に対し同日午後、馬場は平井会長宅を訪れ拒否する事を伝えました。同夜、馬場は新団体設立に向けての準備のため渡米。馬場は日本プロレスの外国人ブッカー、ミスター・モト(チャーリー岩本)、新しく全日本プロレスの外国人ブッカーとなるドリー・ファンク・シニアに相談したそうですが、やはりベルトの帰属は団体側にあり。

また、大木が馬場と対戦した場合、大木がセメントを仕掛けて馬場を負傷させるのでは?という噂もまことしやかに流されています。

8月31日に帰国した馬場は、9月1日、日本プロレスリング・コミッション事務局にインターナショナルのベルトを返上を伝え、翌2日日本プロレスで行われた記者会見で、馬場は正式にインター王座を返上。これで馬場は日本プロレスから離れ、本格的に新団体設立へ動き出しました。

9月9日、午後2時から馬場は東京・赤坂のプリンスホテル「有明の間」で記者会見を行い、「全日本プロレス」の設立を発表。

新会社は「全日本プロ・レスリング株式会社、代表取締役は馬場正平。資本金は4,000万円、事務所は東京都港区六本木7丁目3番12号のインターナショナル・ビルディング内に開設。

旗揚げ前夜祭を10月21日町田市体育館、旗揚げ戦を日大講堂で行ない、シリーズ3週間15大会を行う予定。外人選手は交渉中で後日発表。日本選手は馬場、大熊元司、駒厚秀(マシオ駒)、轡田友継(サムソン・クツワダ)、佐藤昭夫の5人が決定。

日本テレビでは、10月7日から「全日本プロレス中継」の放送を開始。7日と14日は海外からの馬場なの試合と、馬場旗揚げ記念名勝負集、21日から本格的に試合中継をスタートすると発表されました。

10月19日、「旗揚げジャイアント・シリーズ」に参加するブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク、フレッド・ブラッシー、ダッチ・サベージ、ドン・デヌーチ、ジェリー・コザックの6人の外国人レスラーが来日。(ドリー・シニアは終盤戦に特別参加)

10月20日、東京ヒルトンホテル(キャピタル東急ホテル)で全日本プロレスの旗揚げレセプションが盛大に行われ、所属日本人選手、参加外国人選手が出席。席上馬場は力道山家に返還されていたインターナショナル王座のベルトを寄贈され、新たに「世界ヘビー級選手権」として復活させ、世界の強豪と王座争奪戦を10試合行い、相応の成績を残した場合力道山ゆかりのインターナショナル王座のベルトを巻くと発表しています。

【正解解説】この予想よりちょうど50年前の72年10月31日に東京プリンスホテルで全日本プロレス入団記者会見を行った中央大学4年生の鶴田友美。「全日本プロレスに就職します」という名セリフは歴史的発言となり、「現代っ子」というに相応しい鶴田らしい発言でした。

力道山以来連綿と続く相撲社会の縦割り風習のプロレス界においてプロレスは「入門」するものであり、地獄のしごきと封建的な新弟子生活が待ち受けていることを意味しました。

この記者会見に出席したフリーライターの菊池孝氏は「今の学生ならば、こういった会見で就職という言葉を使ってもおかしくないが、当時は耳を疑った。プロレスラーや相撲取りになることは就職には違いないが、その表現を入団会見で使った大胆さというか、若者らしい無邪気さというか、とにかく記者達は驚いていた」と述懐しています。

鶴田はこの年の9月にレスリングの日本代表として出場した西ドイツで行われたミュンヘン五輪から帰国しましたが、帰国早々の9月10日、鶴田の実家である山梨県牧丘町でぶどう農園を営んでいた実父の林さんが63歳で急逝、実家に帰っていましたが、その後、叔父で元湊川部屋の幕内力士、甲斐錦と同郷の尾上親方(元小結棚の富士錦、DDTでプロレスラーになった一宮章一の父親)から勧誘を受け、相撲部屋の見学をしていました。

同時に鶴田は日本アマレス協会会長である八田一朗氏を通じてプロレス入りも視野に入れていました。

流さんがコラムに引用したのは72年10月19日発行の「報知新聞」(現在のスポーツ報知)で「大相撲か、プロレスか」という見出しの下に「激烈!争奪戦」という小見出しがあり、鶴田を巡って相撲界とプロレス界が激しい争奪戦を展開していたという内容の記事になります。

記事によると、鶴田は9月20日〜25日にかけて行われた鹿児島国体でレスリングのフリースタイルに出場、3位に入賞。

この時点で国体のアマレスの試合に出ているということは相撲よりもプロレスに色気を見せていただろうと思われ、馬場が旗揚げ興行に向けて、外国人ブッキングルートの確保に渡米し、帰国したタイミングで面談、つまりは「社長面接」があり、「即採用」が決まったということでした。

※対戦戦績は259戦46勝213敗、勝率178。 
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