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2023年01月25日23:38

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週プロ流智美あの日あの時予想2021年総括(17)

第183戦、4月28日発売号●【予想】世界最強タッグリマッチ、超獣コンビが馬場&鶴田組を破り優勝(83年全日本プロレス京都府立体育館)【正解】高見山プロレス転向報道(75年5月1日)

【予想解説】81年12月13日、全日本プロレス蔵前国技館での「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦、公式戦最終試合のドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組のザ・ファンクスvsブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組の試合に3日前まで新日本プロレスのリングに上がっていたスタン・ハンセンがブロディ&スヌーカ組のセコンドとして登場、試合に介入し、馬場、鶴田と乱闘し全日本プロレスへの電撃移籍となり、日本中のプロレスファンに大きな衝撃を与えました。

ハンセンは翌82年1月の「新春ジャイアント・シリーズ」後半戦から全日本プロレスに参戦、2月4日、東京体育館では馬場のPWFヘビー級王座に挑戦、当時44歳で限界説が流れていた馬場はハンセンの登場で息を吹き返し、この年の東スポプロレス大賞の年間ベストバウトを獲得する名勝負をやってのけました。(結果は12分39秒、両者反則)

ハンセンの全日本プロレス移籍でブロディとの「超獣コンビ」あるいは「ミラクルパワーコンビ」が実現。2人は同じウエストテキサス大学卒業でジョージア、オクラホマ、ルイジアナなどで若手時代にタッグを組んでいたところから出世して日本でタッグを組むことを望んでいたファンは多数おり、待望のタッグ実現となりました。

ハンセン&ブロディ組は先ず2月の馬場、鶴田、天龍のアメリカ遠征ツアーで実現、2月20日(現地時間)フロリダ州セントピーターズバーグ・ベイフロントセンターアリーナで鶴田&天龍組と対戦、6分13秒、ハンセンが天龍をウェスタン・ラリアットからの体固めで撃破、この試合は日本テレビで放送されました。

日本では「グランド・チャンピオン・シリーズ」4月20日、愛知県体育館で馬場&鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦、1−1から両チームリングアウトの引き分けになっていますが、王者組は1フォール、ギブアップも奪えず屈辱の防衛となりました。

超獣コンビは11月26日、後楽園ホールで開幕の「世界最強タッグ決定リーグ戦」に初エントリー、優勝候補の絶対本命と言われましたが、シリーズ最終戦、12月13日、蔵前国技館でのザ・ファンクスと最終公式戦で対決。

ブロディがドリーを羽交い絞めにし、そこへハンセンがウェスタン・ラリアット、しかしレフェリーのジョー樋口に誤爆してしまい、樋口はダウン、代わって入ったサブレフェリーのルー・テーズに暴行を加えた超獣コンビが12分30秒に反則負けを喫し、テリーが「翌83年夏で引退」を発表していたファンクスが最後の優勝を果たしています。

鬱憤が収まらない超獣コンビは次の最強タッグはテリーが引退して不参加となるところから、最強タッグを待たずにリマッチを要求。翌83年4月の「グランド・チャンピオン・カーニバルPART�機廚妊侫.鵐�ス、馬場&鶴田組と前年の最強タッグ上位3チームによる「賞金10万ドル争奪世界最強タッグ・リマッチ」が行われています。

3チームの2回総当たりリーグ戦で試合は45分1本勝負。○勝ち2点、△時間切れ引き分け1点、●▲負けと両チームリングアウト0点のPWFルールで争われました。

シリーズ最終戦の4月28日、全日本プロレス初使用となる京都府立体育館は超獣コンビ人気で8,200人満員発表の観客を動員。ファンクスは1勝1時間切れ引き分け1敗1両リンの3点でリーグ戦終了。

公式戦最終試合は1勝1時間切れ引き分け1両リンで3点の馬場&鶴田組と1勝2敗(反則負け)で2点のハンセン&ブロディ組の一戦。勝った方が優勝、時間切れ引き分け、両リンなら馬場&鶴田組とファンクスで優勝決定戦を行うことに。

超獣コンビが恐るべきパワーを発揮、自軍コーナーでブロディが鶴田をシュミット式バックブリーカーに捕らえるとそのまま固定しておいてそこへハンセンがニードロップ、そしてトドメとばかりハンセンが鶴田にウェスタン・ラリアット、13分9秒、体固めでハンセンが鶴田をフォール、勝ち点4で優勝し、前年暮れの最強タッグのリベンジを果たして賞金10万ドルを手にしています。

この流れが翌84年のPWF世界タッグ王座新設に繋がっていきます。

【正解解説】「あの日あの時」も2巡目に入り、流さんのソースがプロレス専門誌からスポーツ紙が多くなり試合以外の報道ネタが増えて来ましたが、その特徴的なコラムが今回。

ハワイ出身の大相撲幕内力士の人気者、高見山大五郎(本名ジェシー・クハウルア、当時30歳)。韓国(帰化した人も含む)、台湾などのアジア人を除いた初の外国人幕内力士、学生時代はアメリカンフットボールで活躍、64年2月に元横綱・前田山の高砂親方にスカウトされて大相撲入り。

日本の生活習慣の文化の違いに苦しみながらも猛稽古に耐えて同年春場所に初土俵を踏み、外国人特有の腰高に苦労しながらも股割りに取り組み「目から汗が出た」という名台詞を残しました。

68年初場所に新入幕、72年名古屋場所では東前頭4枚目で13勝2敗で幕内最高優勝を果たしました。第54代横綱の輪島は高見山の喉輪を苦手とし、横綱になってからも合い口が悪く対戦成績も24勝19敗と芳しくありませんでした。

私生活では日本人女性と結婚し、年寄株取得の為に妻女の姓である渡辺大五郎を日本名とし日本国籍を得ています。

75年5月1日付の日刊スポーツの一面で「高見山プロレス転向」が報じられ、ハワイでボクシング、ローラーゲームなどの興行を主催し、プロレスではエド・フランシス、ロード・ブレアースの手伝いをしていたプロモーターのラルフ円福(まるふく)の独占取材に成功。

円福氏は「来年(76年)の夏には高見山がプロレス入りし、ハワイのプロレス界のスターになるであろう。既に契約は交わしてある。ホノルルに高見山レスリングジムを開設する準備がある」とアピールしました。

これに対して5月3日付(2日発行)の東京スポーツでは高見山がインタビューに応えて「あり得ない」と日刊スポーツの記事を否定。結局のところ高見山のプロレス転向は実現しませんでした。

しかし、78年に高見山の後援会会長をしていた日本船舶振興会の笹川良一会長がスポンサーとなり元プロ野球選手の豊田泰光を社長とした新団体「大日本プロレス」(実際に存在する団体とは別)構想が表面化するなど高見山とプロレスとは因縁がつきまといました.

84年に引退後は年寄東関として後身の指導に当たりましたが、引退後の08年5月21日ので日刊スポーツの紙上で「私はプロレスに行くつもりはなかったですね。でも実はね、サインはしました。引退した後、もしプロレスに行くならマネジメントさせてほしいという契約。その人たちが、あんまりしつこかったから」と当時の騒動について真相を語っています。

一方、NET「ワールドプロレスリング」「大相撲ダイジェスト」のプロデューサーで後の新日本プロレス専務、永里高平は、「ジェシー(高見山)は実際に契約まで交わしていて、当時の春日野理事長(元横綱・栃錦)が莫大な違約金まで支払って何とか慰留した」と証言しています。やはり火のない所に煙は立たない…。
※対戦成績は183戦36勝147敗、勝率197。 
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