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2018年06月28日07:51

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(390)

85年6月27日に長州がジャパンプロレスの社長に就任。(実際は大塚直樹との複数代表制、ゼロワンの橋本真也、大谷晋二郎と中村祥之のような関係)池尻大橋に新社屋、道場と合宿所をオープンさせ(竹田勝志会長の所有物件)ました。

ロサンゼルス五輪アマレス日本代表の馳浩(当時24歳、星稜高校教員)、佐々木健介(当時18歳)らプロパーの新人も入門し団体の地盤は強固なものになりました。

長州、大塚は全日本プロレスからの独立を画策しました。長州の商品価値に目をつけたTBSテレビと水面下で折衝が進められていました。

長州効果の影響もあり、日本テレビの全日本プロレス中継が10月19日から毎週土曜日午後7時からのゴールデンタイムに放送時間帯が昇格。全日本プロレスはこれまで日本テレビから受け取っていた放映権料の10%をジャパンに支払っていましたが、これを15%に引き上げました。

しかし、「自分達が(新日本プロレスから)来たおかげでゴールデンタイムに復帰出来たのに僅か5%アップとは…」とジャパン内でも不満の声が聞かれました。

11月4日、ジャパンプロレス主催の大阪城ホール大会で長州と鶴田が60分時間切れ引き分けとなりましたが、この試合、スタミナに余力を残していた鶴田と、鶴田の巨体を持て余し、ヘトヘトになっていた長州との対比で、「鶴田は長州より強い」というイメージがファンに浸透してしまいました。

後に柳澤健著の「1964年のジャイアント馬場」の中ではまた違う評価になっていますが、それは長い時間が経過して様々な角度で検証され、鶴田も馬場も既に故人となっていたところから、天龍の証言しか引用されておらず、あれが間違っているとは言えませんが一つの見方であり定説を覆すだけの説得力はなかったと思います。

何より、対戦した長州が一番「敗北」を感じたはずで、以来長州は全日本プロレスのスタイルを悪く言うことはなくなりました。

全日本プロレスの85年世界最強タッグ決定リーグ戦が終わってから3日後の12月15日、後楽園ホールでジャパンプロレスの自主興行(観衆3,400人超満員発表)が行われています。

ジャパンプロレスvsカルガリー・ハリケーンズの3大シングルマッチが売りで、メインイベントは長州とスーパー・ストロング・マシンの大将対決で16分48秒、長州の反則勝ち。

セミファイナルでは小林邦昭vsヒロ斉藤のジュニア対決が組まれ、11分47秒、H斉藤がリングアウト勝ち。

谷津嘉章と高野俊二の一戦は10分47秒、谷津が片エビ固めで勝利。スコアの上ではジャパン軍が2勝1敗で勝越し。

TBSでは翌週の12月22日、午後8時より60分枠で長州の特番を放送、ジャパンプロレスの放送に向け動きましたが、TBSの上層部にかつて国際プロレスを放送していた際に外国人ブッカーだったグレート東郷がギャラの不払いを理由にシリーズに来日中の外国人選手を突如、引き上げさせて帰国させた一件でプロレスに対するアレルギーを持つ幹部が存在し、プロレスに対していいイメージを持っていなかったことで話は決まらず。

ジャパンプロレスの独立も当時はテレビ局の支援がなければ事実上は不可能となり、頓挫しました。

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