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2018年02月22日07:59

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(288)

79年1月7日は新日本プロレスにとって初の日曜日昼興行且つノーテレビの後楽園ホール大会でした。

後楽園ホールの日曜日昼興行はすでに日本テレビ、後楽園球場(現(株)東京ドーム)の関連で全日本プロレスが一早く定着させており、国際プロレスも追随して定期的に興行を開催していました。

新日本プロレスが後楽園ホールを初使用したのは旗揚げ戦後1年4か月も経過してからの73年7月6日からであり、やはり日本テレビと全日本プロレスの妨害工作があったと考えるのが妥当かと思います。

73年は7月6日、20日、10月26日の3回。

74年は1月18日、2月22日、4月5日、7月11日、8月30日、10月25日、11月8日、11月14日と8回とコンスタントに使われて来ました。やはりテレビ中継に最も適している会場と言ってよく、観客の利便性も高かったです。

75年は5月30日、7月4日の2回のみの使用と激減しましたが、76年は復活。2月27日、5月28日、6月20日(モハメド・アリvs猪木の有料公開スパーリング)、7月9日、8月27日の5回。

しかし、新日本プロレスは76年8月27日の闘魂シリーズ開幕戦から78年11月17日のプレ日本選手権開幕戦までの2年3か月の間、後楽園ホールを使用していません。

元々、後楽園ホールと新日本プロレスの繋がりは全日本女子プロレスを含めた他の団体よりも稀薄と言えますが、後楽園ホールと言えばどうしても手打ち(自社主催)となります。

前々回まで書いて来ましたがこの2年3か月というのは新日本プロレスの借金返済路線の真っ只中にあり、手打ちよりも売り興行を優先させた、というのが実状だったと思います。

事実、77年のゴールデン・ファイト・シリーズ、アジア・チャンピオン・シリーズ、78年の闘魂シリーズは東京での興行開催がなく、地方優先であり、78年6月7日、福岡スポーツセンターでの格闘技世界一決定戦開催(2度目の猪木vsザ・モンスターマン、坂口vsランバージャック・ジョニー・リー)は東京でやっても満員になる保証はなく、後援会のある坂口の地元福岡へヘッジしたというのは頷けます。

格闘技世界一決定戦の地方開催はこの79年も何回か行われました。

さて、話を元に戻すと、私は「新日本の後楽園ホール」に初めて行きました。前出の2年3か月間、後楽園ホールが使われなかった、というのが最も大きな要因でしたが、後楽園の狭さと小中学生は立見でしたから、生中継と被った時はやはりテレビ観戦を選択したのです。

後楽園ホールはリング照明設備がちゃんとしており、ノーテレビだからといって暗いことはありません。

試合開始は当時の慣例で午後1時でした。

メインイベントは猪木、長州組vsボブ・ループ、クルト・フォン・ヘス組。1本目は10分24秒にヘスが長州を体固め。2本目は3分21秒に猪木がヘスをエビ固め。

決勝の3本目は2分50秒にループがショルダーバスターから長州を体固めに決め、2-1でループ、ヘス組の勝利。

セミファイナルは北米ヘビー級王座挑戦を控えて絶好調の坂口がトニー・ロコを逆片エビ固めで降し、この日の試合を最後に1か月半のアメリカ遠征に出発する藤波は初来日のゲレロ兄弟の三男、ヘクター・ゲレロと「壮行試合」を行い、9分20秒、ジャーマン・スープレックスホールドでヘクターを撃破し、リング上で新間の音頭により仲間レスラーから胴上げされて海外へと向かいました。
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