77年1月7日、越谷市体育館で行われた新春黄金シリーズ開幕戦のメインイベントは猪木と新日本初参戦となるスタン・ハンセンのシングルマッチでした。
ハンセンは73年にテキサス州アマリロのザ・ファンクスの門下生となりプロレス入り、同期には鶴田、ボブ・バックランドがいます。
74年にはルイジアナで同じウェストテキサス大学出身のフランク・グーディッシュ(ブルーザー・ブロディ)と組んで活躍。
75年9月に全日本プロレスのジャイアント・シリーズに初来日、キャリア2年のグリーンボーイ枠で扱いは参加6外国人選手中の5番手。
馬場、鶴田、ザ・デストロイヤー、アントン・ヘーシンクはもちろん高千穂明久以下中堅からも黒星を喫し大きな印象を与えられず。
同じシリーズに来たボビー・ジャガーズは馬場からシングルで勝ち星を挙げる(前日のテレビ中継で馬場がアブドーラ・ザ・ブッチャーとのタッグマッチで頭部を負傷し、翌週に控える大木金太郎戦を前に不安を観客に抱かせるフリであったことは言うまでもない。)等扱いは上でした。
翌76年、新しいタレントを探していたWWWFからオファーを受けたハンセンはWWWF入り、テンガロンハットにローハイドのカウボーイ・ギミックに変身し"バッドボーイ"スタン・ハンセンとしてフレッド・ブラッシーをマネージャーとして4月26日、ニューヨークMSGのリングでいきなりブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦のチャンスに恵まれました。
試合開始早々、ハンセンのボディスラムでサンマルチノが受け身を取り損ね、首からマットに転落、そのまま動けなくなりました。
試合は5分10秒、ドクターストップによりハンセンの勝ちとなりましたがルールによりベルト移動はなし。
サンマルチノは首の第6頸椎骨折という重傷を負い緊急入院。以後試合は欠場。
モハメド・アリvs猪木戦の行われた米国時間の6月25日にニューヨーク・シェアスタジアムで開催されたWWWFのビッグマッチで体調不十分ながらサンマルチノは復帰、ハンセンとの再戦を行い気迫溢れるマシンガン・キックの連発の前にハンセンが試合放棄でサンマルチノが勝利。
実際は試合を出来るコンディションではなかったサンマルチノでしたが、シェアスタジアムの前売状況が芳しくなくビンス・マクマホン・シニアに泣きつかれてやむなく試合に出たものです。
スコアの上では1勝1敗となった両者は8月7日、MSGの定期戦でケージ(金網)マッチで決着戦。11分11秒、ハンセンをKOしたサンマルチノがエスケープルールでリング外に出ての勝ちでした。
9月にはハンセンの盟友グーディッシュがブルーザー・ブロディのリングネームでWWWF入りし9月4日にはサンマルチノの王座に挑戦。
ハンセンは12月の中旬頃まではWWWFで試合をしていたことが確認できていますが、大事な商品であるサンマルチノを怪我させた未熟者としてサンマルチノの対戦相手をしていたヒールサイドのイワン・コロフやアーニー・ラッドは口もきいてくれなかったそうです。
しかしサンマルチノ自身が「アクシデントだ。気にするな」と却って励ましてくれた為ハンセンは救われた思いになったとのことでした。
8か月でWWWFを事実上クビにされたハンセンは通告された際、ビンス・シニアから日本行きを打診されました。
それは1年少し前に行った馬場の全日本ではなく猪木の新日本プロレスでした。
新日本では「サンマルチノの首を折った男」としてタイガー・ジェット・シンに次ぐナンバー2の扱い、ハンセンとしては文句のない待遇でした。
新日本としてもそのハンセンを猪木が倒すというシチュエーションは美味しく、利害一致でハンセンの新日本行きが決まったという訳です。
ログインしてコメントを確認・投稿する