モハメド・アリは猪木との試合を筋書きのあるフィックスファイトと認識していましたが、猪木側はアリが来日した際にこの試合は真剣勝負だと主張したとのことです。
アリは「打ち合わせはいつやるんだ」と聞いたところ新間は「これは打ち合わせなしの真剣勝負である」と告げ、アリ側は驚愕、エキジビションで大金が稼げる、との思惑が外れました。
来日した翌日の76年6月17日は渋谷のセンタースポーツジムでアリの公開トレーニングが行われ、スパーリングパートナーと真剣な打ち合いをして見せました。
6月18日は紀尾井町のホテルニューオータニで外国人記者クラブ向けの会見を行っています。
両者のウエイトはアリが99.5kg、猪木はアリ戦に向けてスピードをアップさせる為に減量を行い100.5kg。
これまでの猪木の公称体重は112kgであり、相当身体を絞り込んでいました。ウィークポイントの膝への負担が軽減されました。
前75年8月、猪木はロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムでのハリウッド・ブロンドスとの北米タッグ戦以降、帰国して左膝ウイルス性関節炎(蜂窩織炎)にかかり、8月22日、高崎市体育館で開幕した闘魂シリーズを4週もの長きに亘り欠場。
9月19日、千葉公園体育館でのジャック・ルージョーとの試合で力道山ばりの黒のロングタイツで復帰しました(黒のロングタイツはこの1試合限り)。
ここは考え方に個人差はありますが、私はこのウイルス性関節炎の罹患を境に猪木が左膝を対戦相手に狙われることが目立ち、徐々に衰えが目立って来た、と思います。
ビル・ロビンソン戦、ウィリエム・ルスカとの初戦が最後のピークではなかったかと。
アリ戦後も猪木は1度落としたウエイトは戻らず、大技に力強さがなくなって来たと思います。
その代わり、格闘技戦で取得した打撃技(延髄斬り、アリキック等)や腕ひしぎ逆十字固めと言った関節技を多用するようになりファイトスタイルを自ら変革させて言ったものと思料。そう言った意味でロビンソン戦は最後の名勝負かと思うのです。あくまで個人の解釈ですが。
実際にそこから先のレスラー人生の方が長かった訳ですからそこは猪木を見始めた年代により色々な解釈が存在するかと。
長く猪木の付人を務めていた藤波によれば「猪木さんの体力的なピークは日本プロレス時代」と言う意見です。
確かに昔の日本人の平均寿命やスポーツ選手のピーク期を考えると20代が最高だったと言うのは理にかなっています。
しかし、日本プロレス時代の猪木は悪い言い方をすればどん臭く、馬場と比べるとやはりナンバー2であり、洗練されていったのは新日本プロレスを旗揚げしてからということになるでしょう。
さて、外国人記者クラブの会見では相変わらず「醜いペリカン野郎」とまくしたてるアリに猪木が「お前は試合が終わったらこれが必要になるだろう」と松葉杖を贈ったことで共に上半身裸になっての組み合いを見せて一触即発の緊迫したムードになりました。
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