84年8月25日、新日本プロレスの坂口副社長は全日本プロレスとの業務提携を行った新日本プロレス興行(以下、新日本興行)の大塚直樹社長に対し、9月一杯で取引解消する旨の絶縁宣言をしました。
新日本興行には新日本プロレスの興行はもう売らないということです。
翌8月26日には田園コロシアムで全日本プロレスと新日本興行の業務提携第1弾興行が開催され、13500人(超満員)発表の観客を動員しています。
13500人という数字は同所の興行の事実上最高記録である81年9月23日の新日本プロレスの大会を意識した発表であることは間違いないところでした。
全日本のメインイベントはスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組に馬場、ドリー・ファンク・ジュニア組が挑戦したPWF世界タッグ選手権試合で前年引退し、馬場、ドリー組のマネージャーに付いたテリー・ファンクが介入しての反則勝ちでハンセン、ブロディ組が防衛。
介入したものの、ハンセン、ブロディに返り討ちに遭ったテリーは復讐の為に復帰を示唆する発言を試合後に行い、(実際にこの年の11月、世界最強タッグ決定リーグ戦で復帰)過半数以上のファンから反発を買いますがこれはリタイアに対する日本とアメリカの文化と考え方の違いでした。これについては別連載「ジャンボ鶴田怪物伝説」で順を追って書いていきます。
2代目タイガーマスクがデビューしラ・フィエラと対戦、タイガー・スープレックス84で快勝しました。興行的にはまずまず成功したと思われます。
この日新日本プロレスは福生市民体育館でストロング小林の引退記念興行を行っています。
S小林は40年12月25日東京都青梅市出身、青梅農林高校時代は野球部で活躍、高校卒業後は国鉄に入社し稲城駅の改札係をしていましたがボディビルで身体を鍛えており、66年に国鉄を退職し吉原功が代表を勤める国際プロレスに入団。
日本人初のマスクマン、覆面太郎としてデビューを飾り素顔になってからはヨーロッパ遠征を経てメインイベンターに成長。69年5月にはフランスのパリで豊登と組んでIWA世界タッグ王座決定トーナメントに出場し決勝でモンスター・ロシモフ(後のアンドレ)、イワン・ストロゴフ組を破り初代同王者となりました。
70年にはアメリカAWA地区へ遠征し、71年6月にミネソタ州ダルースでビル・ミラーを破りIWA世界ヘビー級王者となり凱旋帰国。
73年11月にワフー・マクダニエルに敗れるまで同王座25回連続防衛を果たし馬場のインターナショナル王座連続21回防衛の記録を更新しています。
しかし、マッチメーカーのグレート草津との確執から国際での処遇に不満を抱くようになり、74年2月にフリー宣言、新日本の猪木と全日本の馬場に挑戦。(これは新日本が用意したシナリオと言われる)猪木がこれを受けて立ち、3月19日蔵前国技館で猪木のNWF世界ヘビー級王座に挑戦、壮絶な試合の末、猪木の原爆固めに敗戦。
その後アメリカWWWFにヒールとして再修行に出かけ、9月20日にはニュージャージー州ケムデンでブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑み反則負け。MSGのリングにも登場しています。
12月12日蔵前での猪木との再戦では卍固めの前にレフェリーストップ負けし無念の連敗をしました。
翌75年1月からフリーとして新日本に参戦し5月30日に正式入団、入団第1戦は同日の後楽園ホールでアンドレ・ザ・ジャイアントと両者リングアウトの引き分け。猪木、坂口、S小林のビッグ3時代到来と話題を集めました。
76年2月5日には札幌中島スポーツセンターで坂口と組みタイガー・ジェット・シン、ブルータス・ムルンバ組を破り、猪木が返上した北米タッグ王座を獲得しましたが、藤波辰巳、長州力の台頭でポジションは団体5番目の扱いまで転落。ジョバーを勤めることも多くなっていきました。
81年2月にはメキシコへ遠征しカネックのUWA世界ヘビー級王座に挑戦も獲得成らず。8月に帰国しています。
10月16日、大分県立総合体育館で藤原喜明と組んでハルク・ホーガン、ディック・マードック組と対戦した試合(ホーガンが藤原を片エビ固め)を最後に腰痛が悪化し試合を欠場していました。
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