キラー・トーア・カマタの全日本プロレスにおけるポジションは「ザ・シーク不在時のアブドーラ・ザ・ブッチャーの正パートナー」でした。
シークとの凶悪コンビでヒール人気が高くなったブッチャーはこの78年を境に来日回数が増加しています。
デトロイトのビッグタイムレスリングのオーナー兼エースレスラーであったシークは長期の遠征が出来ず、またブッチャー、シーク組にプレミア感を出す為にも4〜5週のシリーズにフル参戦可能なブッチャーのパートナーはやはり不可欠で、ブッチャーより一回り小さくて同タイプのカマタはうってつけの人材だったと言えます。
カマタは全日本から誘われていることに対して国際プロレスの吉原社長に話を通し、「馬場からこれだけの条件で誘われているけど、行ってもいいか?」と打診し吉原社長は「この金額はウチでは出せない、行ってもいい」と回答している、と言われています。
協力関係にあった国際プロレスだけに馬場が「吉原社長の顔を立てて」カマタにベルトを巻かせたと考えられます。
カマタの全日本初試合が78年5月26日、後楽園ホールでの大熊元司戦で馬場とのPWFヘビー級戦が6月1日の秋田市立体育館、タイトル戦まで1週間ありません。
この間6人タッグで2回対戦しているものの、前哨戦はないに等しい。つまりほとんど初顔合わせでした。
しかも秋田のPWF戦は全日本では少なかった1本勝負。馬場は全日本に来たばかりで手の内のよくわからない相手であるカマタにペースを掴めず、カッとなって暴走し「不覚の」反則負けを喫し、ベルトを手放した、ということです。
では馬場がこの時点でPWFヘビー級王座から転落する必要があったのか?
答えは「あった」のです。前回書いた通り75年を境に馬場のPWF王座の防衛戦の数は急速に減少しました。
当時馬場は持病の糖尿病から来る腰痛が悪化し、シングルタイトルの防衛戦をコンスタントに行えず、一時的にタイトル戦線から離脱したかった時期でした。
そこで出てきたのが新日本プロレスから引き抜いたビル・ロビンソン。
馬場は、同じく新日本から引き抜いた大木金太郎にも2度に亘りインターナショナル・タッグ王座を明け渡しており、初戦で潰した後は見返りを与えています。
ロビンソンもこのパターンでUNヘビー級のベルトも巻かせていますがこの時は僅か18日間の話であり馬場の代名詞であるPWFを見返りに、という話が出てもおかしくありません。
しかし馬場がロビンソンに負けて転落、というのは対猪木を考えるとプライドが許さなかったかと思われます。馬場にとってロビンソンは所詮、外様に過ぎず、あくまで、見返りを与えるだけです。
馬場は大木にシングルで負けたのはこの年の第6回チャンピオン・カーニバルの4月1日、大館市民体育館で大木の急所攻撃の前に破れただけで実力負けではなかったです。
そこで、考えられるのが「WWWF方式」ブルーノ・サンマルチノからペドロ・モラレスに王座交代する時にイワン・コロフを、モラレスから再びサンマルチノにベルトを戻す時にスタン・スタージャックがショートリリーフとしてヒールの中継ぎ王者になったのと同じ手法です。(後にボブ・バックランドからハルク・ホーガンにベルトが移る時も中継ぎでアイアン・シークが戴冠している)
馬場から反則勝ちでPWFヘビー級王座を奪ったカマタはその12日後の6月12日に一宮市産業体育館でロビンソンの挑戦を受け、ロビンソンが21分57秒、ワンハンド・バックブリーカーで勝利。PWF王座を獲得しています。カマタはショートリリーフながら馬場の防衛記録を38でストップさせた男として歴史に名を残しました。
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