mixiユーザー(id:63255256)

2020年01月08日01:19

119 view

明智光秀は天下を取ったのか

○「三日天下」という慣用句がありますね。「本能寺の変」で信長を討った光秀が、わずか半月ほどとは言いながら「一時的に天下を取った」という「理解」から「明智光秀の三日天下」という言葉が生まれて、一般的にも使われるようになっているわけです。しかし、これが「大きな問題だった」んですよ。本当に光秀は「天下を取った」と言えるのでしょうか。試しに、以下の文章をご覧ください。

○「宛名の土橋平尉は、足利義昭の側近です。光秀が信長を討ったと知った義昭は、すぐさま土橋を通して、光秀に伝えてきました。自分を京都へ入らせろ、将軍として復権させろ、という命令です。すると、光秀は即座に快諾したのです」

○新発見の原本手紙「光秀の土橋宛」に関する説明文が、上記のとおりであるならば、「義昭黒幕説」の勝ちですね。いくら否定派が「義昭は事件に便乗して、入京を要求したにすぎない」と主張しても、肯定派が言うように「せっかく天下を取った光秀が、それを義昭に譲るはずがないじゃないか。義昭の復権を認めたのは、最初から義昭の命令で動いていたからだ」という主張をくずせないでしょう。けれども「上記の説明文」には間違いがあります。土橋は義昭の側近ではないし、義昭のそばにもいませんでした。それは本文中に書いてありますね?

●六月十二日「明智光秀の土橋平尉宛」本文中の第二文章
「一、高野、根来、其元之衆被相談、至泉河表御出勢尤候。(以下略)」

○土橋の所属する「其元之衆」こと「和歌山市の雜賀衆」が、高野衆と根来衆とともに、泉河表(大阪府方面)に「御出勢」なんです。鷺ノ森本願寺の右筆による『宇野主水日記』では、雜賀衆の最有力者「鈴木孫一」が、六月三日の夜には居宅を捨てて、岸和田城(大阪府岸和田市)へ逃げています。そして四日に「鈴木の居宅」などが襲撃を受けています。すなわち「本能寺の変」から、わずかに二日後「雜賀衆では軍事行動が始まっている」と見られるんです。これを「織田家恭順派の鈴木家」と「織田家反発派の土橋家」による内部抗争だと考えれば、信長を討った光秀は当然「織田家反発派」となるはずで、土橋は「光秀に報告して、味方の表明をすればいい」はずじゃないですか。光秀が「信長を討って、一時的であれ天下を取った」のなら、土橋は自己都合であっても「天下人の光秀に接近すべき」はず。しかし「土橋から来た手紙」に光秀が返事を書いたのは、十二日です。しかも土橋は「上意で馳走を申し付けられて、示してきた」んです。

○では、この点を「義昭黒幕説」が言うように「光秀は信長を討った実行犯にすぎなくて、天下を取ったのは義昭である」と仮定してみましょうか。すると土橋は「自己都合の軍事行動を義昭に報告して、認可をもらえばいい」と「知っていた」ことになるのを、前回に指摘しました。つまり土橋も「義昭勢力の内部の者だった」という意味になるわけです。だとしたら、たとえそれが「父を討った鈴木孫一に報復したい」という私的な行為にしても、「事前に義昭から認可を受けておけばいい」はずじゃないですか?「光秀が討った」の一報が入り次第、すぐに土橋は「鈴木の居宅を襲撃すればいい。そうすれば、孫一に逃げるヒマはなかった」となりませんか?

○「十二日」という日付が示すのは、土橋が「事件を義昭に報せて、認可をもらってから、それを光秀に示してきた」という経過時間。孫一が逃げた点を見ても、土橋は「光秀が信長を討つのを、事前には知らなかった」の意味になるでしょう。けれども「義昭に認可を求めた」という行動は、土橋の認識として「義昭が認可を出せる立場だと知っていた」の意味になるのです。この「矛盾」をどう理解します?「義昭が裏側で密かに作りあげていた勢力」の「内部にいない者」までが、「光秀の背後に黒幕の義昭がいる」と「実は知っていた」とでも言うの?

○だから「根本の理解」を変えるべきなんです。義昭とともに毛利輝元が「公然と幕府を示していた」のは表側の話で、ゆえに「周知の事実」なんですよ。つまり、天正十年の当時、旧体制の義昭と、新体制の信長と「二人の最高位者」がいて、その片方の「信長」を討ったからって、光秀が「最高位者になったわけではない」と考えてみるんです。光秀は「わずか三日の天下」すらも「取ってない」わけで、「天下を取ってない」以上は、義昭に譲るも何もないわけで、信長とは別の「最高位者」である義昭が動いてきたのを「認めた」だけのこと。もしも光秀が、このとき「義昭の要求」を平然と蹴ったのなら、信長を倒し、義昭も倒して、自分が「天下を取ろうとした」の野望説が成立しますが、そうでないことを「光秀の土橋宛」が示しているじゃないですか。そして土橋のほうも「三勢力が、自分たちで相談して、出陣した」と書いてあります。上意を受けての出陣ではないのに「上意を示してきた」のですから、もともと「織田家反発派」の土橋が、この際とばかり「もう一人の最高位者」に接近したのが、見え見えでしょ?

○これで、前回に示した「手紙の疑問点」の一つが解けました。要するに「義昭黒幕説」というのは、せっかく自分たちで「鞆幕府」の存在を言いながら、「光秀が天下を取った」の前提でしか成り立たない「天下取り史観」に浸っているんです。そして「天下取り史観」とは、早い話が「封建制度の基本も理解していない」ような「くだらない歴史観」です。いつまでやってんだよ、ばかばかしい。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する