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2017年11月01日02:08

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本史関ヶ原46「北陸戦の失策」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、細川忠興の「八月中の行動」を詰めるべく、前田利長の北陸戦を確認していきます。実のところ、北陸戦に関連する手紙は三通しかないのですが、それでも「重要な記述」があるんですよね。

●細川家史料8月1日「差出」細川忠興「宛」ミツ
●家康文書8月24日「返信」徳川家康「宛」前田利長
●一〇五号9月13日「差出」徳川家康「宛」土方雄久

○まずは繰り返しになりますが、『細川家史料』の八月一日付。この手紙によって「利長の北陸戦は、丹後の救援出陣だった」ことが確定です。忠興は「幽斎へ後詰め」と書いていますからね。ゆえに「定説で語る北陸戦」など、もはや無視。

○問題は、石川県の金沢から丹後へ向かう進路です。地図どおりに見ていけば、金沢からは南西へ進むほかになく、まだ石川県内に小松城。その先に、やはり石川県内の大聖寺城。さらに進めば福井県に入って北ノ庄城です。この先は、木ノ芽街道で敦賀市に出るか、北国街道で滋賀県に出るか、大野市のほうから美濃街道で岐阜県へ出るか、三通りの道が存在します。大谷吉継の敦賀城を迂回するとしても、北国街道と中仙道の合流点の近くには、石田三成の佐和山城がありますから、大谷と石田、どちらかの居城に対して包囲戦をする必要が生じるでしょう。つまり利長は、いきなり丹後へ行けないがため、敦賀か佐和山か、どちらかを攻撃目標にしたはずなんです。では、どちらを狙うべきでしょう?「通常の兵法で見る限り」と言いたいところなんですが、私が「本物の史料できちんと戦術分析をした合戦」の中に、こんな長距離の救援出陣はありませんのでね。しかも利長は、歴史の結果として、どちらにも「たどり着いていない」わけでして…。

○『徳川家康文書の研究』が収録する八月二十四日付に、利長が「大聖寺城を乗り崩し、山口親子を討ち取った」の記述があります。福井県にも行けないまま、石川県内で攻城戦をしたわけです。すなわち「三通りの道のどれを選ぶ」という以前の問題。遥かに手前で進路を妨げられていたということ。普通なら、このような「突撃攻城戦」を書く手紙は偽造史料でしかないのですけど、この手紙の場合は本物と見られます。なぜならば、利長の報告を読んだ家康が「先々小山まで御帰陣之由尤に候」と書いているからです。「小山」は「尾山城」のことで、利長の居城。後に整備された金沢城と、位置はほぼ同じです。つまり利長は「大聖寺城を攻め落とし、城主の山口を討ち取ったものの、兵を引いて、居城に帰還してしまった」わけで、それを家康が「尤に候」と認めているんです。当然の話でしょうね。無理な城攻めをすれば、味方の兵に甚大な被害が出て、戦争の継続が不可能になるのが現実なのですから。「いくら兵が死のうとも、戦争の遂行に支障が生じない」のは、フィクションの「作り話」です。ちなみに『孫子』は、城攻めについて、こう書きます。「将不勝其忿、而蟻附之、殺士三分之一、而城不拔者、此攻之災、故善用兵者、拔人之城、而非攻也」

○翻訳すれば「将が、怒りを抑えきれずに、蟻が群がるかのように城へ取り付かせると、配下の三分の一もの士を殺す。そのうえで城も落とせないとなれば、これは「攻め」が災いでしかないことになる。ゆえに良き用兵とは、敵の城を落とすにも、攻めずにやることだ」です。フィクションの書く「城は攻めればいいんだ」とは、まったく逆の方法論が『孫子』に書いてあるわけですね。「攻めないで、どうやって城を落とせばいいのか」は、基本的な理解が『孫子』に書いてあるうえに、織田信長ほか「歴戦の名将」たちが実際にやってみせています。その結果として、互いの行動が固定化した「基本ルール」さえもあるんですが。

○だとしても、実戦経験の少ない「二世大名」たちに、ろくな戦術理解がないのも実際のところです。『細川家史料』でわかる「島原戦争」では、それが顕著です。それにしても「あの前田利家」の息子にして、「あの織田信長」の娘婿である利長ですら、どうやら「城攻めの采配ができる」レベルにはなかった模様。先を急ぐ状況なのに、進路を妨害されて、怒りを抑えきれずに無理な「乗り込み」を敢行してしまった利長は、士兵に多くの被害を出し、居城に帰還するしかなくなったようで、まさに『孫子』が「やってはいけない」と書いていることを「やってしまった」という次第。せめて「城を落とせた」だけでもマシってものでしょうか。とはいえ、全部の兵を撤収したわけでもなさそうです。なぜなら、大聖寺城の手前に小松城があるからですね。九月十三日付の一〇五号には、小松城主の丹羽長重から、家康へ手紙が来たことが記されています。そして家康は、前田軍に同行していると見られる土方雄久へ、「丹羽と友好を結んでください」と指示しているのです。原文は「此節有御入魂先々墓行候様に尤候」です。「墓行」の言葉は、なんか不穏な意味に感じるでしょうが、これは単に「はかゆき」の当て字で、現代語なら「はかどる」の意味。原文を直訳すれば「この際は仲良くしたほうが、この先いろいろはかどるというのも、そうだと思う」です。つまり丹羽のほうから「友好を結んだほうが都合よくないですか?」と言ってきて、家康も「そうだと思う」ので、だから「丹羽と講和して」と指示をしたってこと。

○丹羽長重は戦後に領地を没収されています。「結果に合わせた解釈」は理解を壊すだけですが、「結果的事実」は重要なデータとなります。徳川の味方をした者が、戦後に処分を受けるはずもなく、「丹羽が処分を受けた」の結果は敵対行動をとった証拠です。ゆえに利長の進路上には、大聖寺城の以前に、丹羽の小松城が立ちはだかっていたことになるのです。先ほど「こんな長距離の救援出陣の例を私は知らない」と書きましたが、それは「長距離移動の」という意味ではありません。救援すべき城までの進路上に「三つも四つも敵城が立ちはだかっている例」を知らないだけで、一つや二つなら、いくつもの例があって、分析済みです。「後方に敵城を放置したままで先へ進む」ことなど絶対にありません。そんなことをしたら、味方の補給路が遮断されてしまいますからね。よって必ず「敵城が後ろから手出しできないだけの状況を作っておく」か、人数を割いて「敵城を包囲し、封じておく」か、どちらかです。この場合の利長は「小松城を封じておいて、自分は先へ進んだ」ことが、一〇五号の記述でわかります。前に書きましたけど、「籠城しても救援軍が来なかった」場合、城主は「今さら降参できない」のが「合戦の基本ルール」です。城主に残された選択肢は、親族や城兵の命乞いをして切腹するか、城を出て突撃戦で戦死するかの二つだけ。そういう理解のもとで一〇五号を読めば、「この際だから」の意味が通じてきませんか?

○「丹羽の降参」については、いずれ詰めるとしまして、北陸戦の始まった状況について、もう少し考察してみるとしましょう。大事な点が残っていますしね。
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