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2016年06月20日01:05

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関ヶ原史料「輝元隠居?」島津討伐一三四号

○毛利家に、周防と長門の二ヵ国領有を認める「安堵状」が発行されたのは十月十日。遅れて十二日に、井伊直政が「添え状」を書いていました。これに返信したと見られる輝元の誓詞があります。宛名は井伊直政で、十一月五日付。

●手紙一三四号「敬白天罰起請文の前書き」「このたびのこと、御取り成しをいただき、領有権が無事に確定しましたこと、過分このうえもないことです。特に内府様の御誓詞を下されましたことには、身に余るありがたさ。子々孫々まで忘れることはないでしょう」「今後のこと、いろいろお頼み願うほかにありませんので、御心ばなれをなさらずに、御指南をいただきたいものです」「この先は訴訟せず、離反のありようはずもありません。当然ですが虚説などがあるならば、御尋ねくださいますように」「私に対して、以後は内府様が、まったく御気遣いなど不要となるよう、なんでもあなたの御指図次第に致しますので、御指導をお頼み願います」「秘密の仔細を聞かされましたこと、わずかでも他言は致しません」「以上のことに偽りがあれば…神文は略」

○普通に考えれば、安堵状をもらったことにより、「今後は敵対しません」と誓詞を送ったことになります。しかし内容は、かなり卑屈な感じです。たとえば定説だと、「裏切り工作に応じたから、領地が保障されるはずだったのに、徳川が手のひらを返して領地没収。やっと防長の二ヵ国だけを認められた」わけですよね。その解釈のもとでは「あまりにも卑屈になって、必死なくらいに平身低頭している」といった感じです。一方、ここで見てきたように「西軍が敗北したので講和して、毛利本家は存続できるはずだったのに、戦争への直接関与がバレたことで、すべてを失うところだったが、なんとか二ヵ国の領地が認められた」という理解にしても、この誓詞の内容では「卑屈になりすぎている」感じがしてしまうほどです。そう感じる理由の第一は、「何を誓っている」のか、文章に具体性がないことでしょうね。第一文で「御恩は子々孫々まで忘れません」と誓うほかは、「御指南ください」「御指導ください」と、輝元が「誓う」と言うよりも、まるで井伊に「誓ってください」と頼んでいるかのようです。だから「ひたすら徳川家に頭を下げているだけ」のように感じられるのだと思います。なお、最後では「聞かされた秘密の話は他言しません」と誓っていますが、これなども具体性が何もありません。変に思わせぶりなだけです。そして何よりも、日付が十一月五日であることに疑問が生じます。安堵状をもらって領地が確定してから、いったいなぜ、こんなに時間が過ぎてからの返礼になるのでしょうか。

○この誓詞で輝元は「右馬頭入道宗瑞」と署名しています。毛利家を息子の秀就に譲って、隠居したことを示しているのです。秀就は文禄四年の生まれなので、このときわずかに五歳です。こんな幼児に当主が務まらないのは、豊臣秀頼と同じことであり、秀就が実際に当主の地位を継ぐのは元和九年、二十三年後のことになります。しかし輝元が、関ヶ原戦の直後あたりから「宗瑞」の隠居号を使用していることも、どうやら事実のようなんですよね。現代的な感覚では「跡継ぎが幼いので、実際には当主の座にあり続けるけども、かたちだけでも隠居したことにするくらい、徳川家に低姿勢を見せている」かのような感じで、この誓詞の書く「卑屈なニュアンス」とも一致すると言えそうです。しかしながら、輝元の隠居号の使用が本当にこの時期であるならば、実際に「秀就に当主を譲った」ことになってくるのです。これも秀頼のケースと同じで、秀就が毛利家の主君となって、輝元が摂政権を持つってこと。元和九年の「秀就の実質的当主就任」は、輝元が代行権を返上して、名実ともに秀就が統治権を持ったということ。そうまでして「当主の代替わり」をしたということは、毛利家が「豊臣家の統治権下から離れて、徳川家の統治権下に移った」ことになってきます。すなわち領地の安堵状を「豊臣秀頼の代行権者から受けた」のではなく、あくまで「徳川家康から受けた」意味になるんです。すると、輝元に「島津討伐の先陣に出ろ」と命じていた手紙「一二六号」では、徳川家の井伊と本多が、豊臣家の福島と黒田へ「毛利を先陣に」と書いていました。この段階では「豊臣秀吉に安堵された毛利本家の直轄領地が、そのまま領有を認められていた」ようですから、「秀頼の代行権者である家康」が直接に、毛利に命じるのではなく、三奉行に代わって「豊臣家の奉行職」を務めるのだろう福島と黒田を通していることになりそうです。その後、一旦すべての領地を失ったものの、新たに「家康から安堵状を受けた」毛利家は、もはや「秀頼様に忠義を示す立場」ではなく「家康様に忠義を示す立場」に替わったのかもしれません。武士は「安堵状を授ける上位権者」に忠義を示すものだからです。そのように考えれば、この誓詞一三四号も、卑屈なニュアンスを感じる読み方は、誤読のような気もします。もっとも、同様に領地を大幅に失った上杉家では、景勝が代替わりをしていないので、難しい問題ではあるんですよね。ともかく一三四号には、なんらかの「状況的な情報」が書かれているわけでもないので、真偽の判断は保留にするしかない感じです。まったくの偽書、一部の改変偽書、そういった可能性も捨てきれませんし、安堵状「一三〇号」のあとに公式の返礼誓詞が別にあって、一三四号は輝元の私信なのかもしれませんし。
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