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2017年11月17日01:49

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本史関ヶ原50「豊臣軍団の始動」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、栃木を出発し、東海道を西進した豊臣軍団の先行武将たちは、八月八日ごろに愛知県の清洲城へ到着しているようです。ここから彼らがどう動いていったのか、わずかな手紙史料で推測します。

●六五号8月13日「差出」徳川家康「宛」浅野幸長
●七八号8月23日「差出」徳川家康「宛」黒田長政
●家康文書8月23日「差出」徳川家康「宛」浅野幸長(七八号同文)
●家康文書8月23日「差出」徳川家康「宛」福島正頼(七八号近似)

○家康が浅野幸長に宛てて「そちらの状況を報せてください。村越茂助を行かせます」と書いた六五号。そして村越が江戸に戻ったようで、「村越から聞きました」の七八号は黒田長政宛て。けれども『徳川家康文書の研究』には、七八号と同文の浅野幸長宛てがありますので、六五号と同文の黒田長政宛てもあったのだろうと思います。ほかにも七八号の同文は、加藤嘉明宛て、京極高知宛てが収録されていますので、福島正則や藤堂高虎に宛てたものもあったのではないでしょうか。しかももう一通、七八号と近似した「同日付の手紙」があるのです。

○七八号の全訳は史料精査のときに書きましたが、全文をもう一度。「村越茂助にいちいちの説明を聞き、大変に喜ばしいです。何もかも理解しました。こちらのことについては、米津清右衛門から細かく伝えさせますので省略します」

○今度は福島正頼宛ての手紙。これももう一度、全文を出します。「村越茂助にいちいちの説明を聞き、喜ばしく思います。何もかも理解しました。このたびは万事に情を通じておられるとのことで、これも満足しております。こちらのことについては、米津清右衛門から細かく伝えさせますので省略します」

○七八号は「大変に喜ばしい」で、原文は「祝着之至候」ですが、福島正頼宛ては「喜ばしく思います」で「祝着存候」です。ここに細かい違いがあるだけで、あとは同じ文章です。ただし途中に一文が入ります。原文は「今度万事被入御情候由候、是又令満足候」です。ちなみに『徳川家康文書の研究』では「情」の文字を「精」の誤写と見ていまして、「御精を入れられ」と読んでいます。その場合は「精を込めて働いた」の意味です。定説は、この時期「西軍が伊勢に進出」して、三重県津市で「安濃津城攻め」をしていますので、「正頼が伊勢で精を込めて戦った」の解釈をしたようです。しかし原文は「このたび万事に御精を入れられ」で、「万事に」の言葉が付くんです。いろいろなこと、必要なことはなんでも「精を込めた」の文を、「戦った」の意味で読んだら変じゃないですか?

○天保武鑑(復刻版)を持っているので、江戸時代末期まで残っている大名家に関しては、いろいろ調べることができます。しかし福島正則のように、江戸時代の初期に潰れている家は、なかなか厳しいです。福島正頼は、正則の実弟と言われますが、確認できません。領地も、本家に隣接する「三重県桑名市長島町」とされるのですが、これも確認できません。ともあれ、冒頭は七八号と同じく「村越に聞いた」ですから、村越が清洲城へ来たとき、黒田長政らと同様「その場にいて、村越と話をした」ってことでしょう。これだけを見ると、正頼も会津出陣で栃木へ来ていて、長政らと一緒に清洲へ急いだ者の一人だってことになりますけど、ならばなぜ「正頼宛てには途中に一文が入っている」のでしょうかね?

●五三号8月2日「差出」長束、増田、石田、前田、毛利、宇喜多「宛」真田信之
●七二号8月20日「返信」徳川家康「宛」分部光嘉

○本物と見られる手紙の中で、この時期、三重県に関するものが、もう一通。分部光嘉が、徳川家の西尾吉次に手紙を送り、それを読んだ家康が直接に返事を書いた七二号です。これが二十日付なので、分部の送った手紙は、海路で最短に見ても十七日の発送、陸路で遅く見ても十日には発送されたでしょう。そして大坂が、五三号「徳川との決別宣言」と同様の手紙を「伊勢の大名衆にも送った」のであれば、三日に発送されたとして、五日には到着しているはずです。つまり分部が「大坂の事態を知って」から「徳川家に報告する手紙を書く」までに、最大で十二日間のタイムラグが生じているんです。この間に分部は「隣接する安濃津城の富田」と連絡を取っていて、七二号には「信濃守(富田)が味方であり、そちらの城へ移られたとのこと。このようなときですから、精一杯になさるのは、確かにそうです」の記述。原文は「信濃守有同心、其城御移之由、此節候間、被入精尤候」です。ちなみに、この文章であれば「精を入れられ」で意味が通じますよね。「万一の防衛戦に備えて、精一杯にやれることをしておく」のは当然の話で、家康も「尤もに候」と納得しているわけです。このように分部が「事態を知って、周囲と連絡を取り合い、対処の行動をとった」のであれば、それなりの経過日数を必要としたでしょうから、手紙を書くまでのタイムラグは仕方ないでしょう。ただし「福島正則たちが清洲に到着した」のは八月八日ごろ。分部が「大坂の事態を知った日」のあとで、「徳川に手紙を送った日」よりも前なんです。

○見えてきた感じですね。分部ら「三重県の小勢力」が、情報を求めて「周囲と連絡を取り合った」とすれば、それだけで数日は経過します。すると、八日にはもう「福島正則たちが戻っている」のだし、彼らが「前線の状況把握」のため、周辺各地に手紙を送ったと考えれば、九日にはもう「三重県の大名衆に手紙が来ている」可能性。この時点で分部らは、関東に出ていた「東海地方の豊臣軍団」が間もなく西へ出てくること、徳川軍も出てくること、この二点を知ることになるんです。途端に分部らも「このままでは済まない。戦争になる」と判断するでしょうね。それから分部と富田が相談し、連携する態勢を調え、防衛準備の完了したことを報せる手紙を「徳川に送った」としても、七二号は「日程的に成立する」んです。さらに推測を重ねれば、もしも福島正頼が在国していた場合、分部らが最初に問い合わせる相手は正頼のはず。なにせ五三号には「関東へ行っている者たちも、妻子を人質に大坂へ置いてある以上は、異議もないことだろうと思います」の文章がありますからね。福島家の反応は気になるはずでしょう?

○やはりポイントは「情」の文字だったようです。分部らが「大坂の事態」を知った日を五日と見て、「豊臣軍団の清洲到着」を知ったのを九日と見て、その間わずかに四日間。このときの初期対応を「正頼がうまくこなした」ことにより、分部ら「三重県の小勢力」が動揺することなく、徳川への協力を確定したのであれば、家康がわざわざ一文を入れて「満足しております」と書くだけの価値があるでしょう。あえて「精」の字で読むとしても、兵糧の確保、状況の把握、周辺との連絡、それら合戦準備の「万事に精を込めて働いた」の意味となりそうですし、その場合、他者と違いうるのは「たった四日間の初動」だけでしかありません。正頼の特別評価は、第一に「初期の連絡対応」だと思えるのですが…。
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