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2017年10月07日00:36

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本史関ヶ原40「誰が立花を呼んだ?」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、前回は「立花宗茂出陣の謎」に突き当たりました。今回は、これをもう少し詰めてみたいと思います。

●七三号一番8月20日「差出」島津惟新義弘「宛」本田(鹿児島)

○鹿児島の家老に宛てて、島津義弘が出した七三号一番には「予定以上の兵数で、立花が垂井に出陣してくる」の記述があったわけです。手紙の日付「八月二十日」という時期であれば、一読「おかしくない」ように思えますが、現実的な「手紙の届く時間経過」を考慮すると、立花への出陣要請は「七月中に出されていなければおかしい」ことが、前回に確認できたわけです。ところで、九州の大名のうち、関ヶ原合戦に参戦したのは誰でしょうか?

●五二号二番8月5日「差出」毛利輝元、宇喜多秀家「宛」鍋島勝茂、毛利勝永
●家康文書10月2日「差出」徳川家康「宛」伊東祐兵

○鍋島勝茂は、佐賀の鍋島直茂の息子です。毛利勝永は、福岡県小倉の毛利勝信の息子。二人とも、二十歳を過ぎたぐらいの若者で、伏見城攻撃に参戦し、手柄を立てて「感状」五二号二番をもらいました。よって「大坂に来ていた」のは間違いないでしょうが、二人の父親は大坂に出てきているようすがありません。息子たちにしても、関ヶ原合戦に出たようすはないのです。宮崎県の伊東祐兵は大坂にいたようですが、戦後の手紙を見ると「正月の上洛後、病気になって、療養のため、ずっと大坂屋敷に滞在していた」だけで、戦争には少しも関わっていない模様。実際、伊東は戦後、年内に病没したようです。また、この手紙には宮崎県の秋月種長、高橋元種、熊本県の相良頼房の名前があって、その文意を見る限り、彼らは九州の居城にいたようです。しかしながら「秋月、高橋、相良は関ヶ原合戦に参戦した」と書く本が多いんですよね。なにせ石田三成の偽書手紙「五八号一番」に添付された「家康を迎え討つための陣立て」に名前がありますのでね。

○実際のところ「関ヶ原合戦に参戦した」のは、毛利家の指揮下にいたと見られる「福岡県名島の小早川秀秋」と、最初から石田三成に加担していたらしい「熊本県宇土の小西行長」のほかは、「鹿児島県の島津義弘」と「宮崎県佐土原の島津豊久」ぐらいのものです。後方で「大津城攻撃」に参戦したとされる「福岡県久留米の毛利秀包」と「福岡県柳川の立花宗茂」を加えても、たったの六名でしかないようなんです。一方で「東軍の側」で参戦したのは「大分県中津の黒田長政」と「佐賀県唐津の寺沢広高」だけ。このうち寺沢は、戦後処理で「九州関係の手紙史料」に名前が出るのみなので、参戦を確実視できません。もしも寺沢がいないとなったら、「会津出陣で関東に出ていた」のは黒田長政の一人ってこと。

○そもそも「関ヶ原合戦を全面修正できる」と考えたキッカケは、「半島出兵の後始末が終わっていない慶長五年の段階で、天下取りの内乱を起こすのは、メリットよりもデメリットが大きすぎる」と思ったことに始まるわけですよ。この点を考慮すれば、九州の大名は「外国からの攻撃に備えて、防備を固めていなければならない立場」であるはずです。すると九州勢は「ほとんどが会津出陣に呼ばれていない」ってことになってきそうじゃないですか。関東へ行ったのは、黒田長政の一人だけ。隠居の如水が、どっしりと構えている黒田家ならば、当主が出陣していても平気でしょうしね。一方、鍋島勝茂と毛利勝永が「七月の時点で大坂にいた」のは、実戦経験のない「若い息子」に最低限の経験をさせるべく、あえて「会津出陣に呼んでもらった」からなのか。もしくは、親が領国にいる代わり、息子が留守番で大坂にいたところ、「今後は天下静謐で、滅多に経験できなくなるかもしれない合戦」が伏見で始まったので、大坂留守居家老と相談し、参陣を志願したのかも。「会津出陣が軍事威嚇でしかない」と見る以上は「せっかくの軍事演習に参入させてもらった」のほうが、可能性は高い気がしますけど。

○ともあれ、状況証拠が揃ってきました。輝元の娘婿「小早川秀秋」と、輝元の叔父「毛利秀包」が、毛利軍の一員として「大坂に呼ばれた」のは当然だろうと言えますし、秀秋の場合は「若くて、実戦経験が少ない」ので、実は会津出陣に呼ばれていて、吉川らに遅れて七月中に「大坂へ来ていた」可能性もあると言えます。では、久留米の毛利秀包が呼ばれたときに、隣接する「柳川の立花」も呼ばれたのでしょうか。つまり「筑前と筑後」を「毛利家の支配国」と見て、立花も「毛利家の動員の中に含まれる」と見るべきなのでしょうか。そうだとした場合、どうして島津義弘が「立花も出陣」とわざわざ書いたのでしょうね。「毛利軍が動員された以上、当然に来るべき者」であるならば、「長宗我部も来るし、立花も来るのに、島津は来ないなんて」という書き方にはならないように思います。別の可能性としては、如水と吉川に友好関係があったように、立花も大坂にいる誰かと個人的な友好関係があって、個人的に招請を受けて「義理に応じて出陣した」というのも考えられるでしょう。ただし、その場合は一つ問題があります。七月二十三日に吉川が如水へ手紙を出し、たぶん同じころに義弘が豊久に手紙を出しているはずなのですが、その時期「大坂城下の港を石田グループが勝手に封鎖していた可能性」です。個人的な手紙を誰もが自在に送れるような状況にはなかったはずだってこと。そして義弘は、七三号一番の冒頭に「手紙を送る者がいたので、便乗して申し伝えます」と書いているのです。この記述は、この問題を考えていくうえでのヒントになりそうな予感。よって、次はここを考えてみます。
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