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2017年11月09日03:30

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本史関ヶ原48「利長の出陣日は?」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、細川忠興が北陸へ行ったかどうかを考えるために、北陸戦の状況を確定しました。残る問題は、前田利長の出陣日。

●三三号7月17日「差出」長束、石田、増田、前田「宛」別所吉治
●細川家史料8月1日「差出」細川忠興「宛」ミツ
●家康文書8月24日「返信」徳川家康「宛」前田利長

○「丹後討伐」が発令されたのは、三三号の日付「七月十七日」です。その後、北陸の丹羽長重らに「事情を説明する手紙」が送られた模様。遅くとも二十四日ぐらいには届いていただろうと思われます。その際、輝元は「利長にも事情を報せたはず」ですが、どうやら安国寺が握り潰したみたいですね。丹後の細川幽斎から「救援要請」が届くまで、利長は「事態の進展」を知らなかった感じです。幽斎の使者は、どんなに遅くとも七月中には来ているはずで、利長は無論、すぐにも家康へ報告したでしょう。しかし関東ではそれより先に動いていました。豊臣軍団とは別行動で「栃木に残った」忠興が、息子のミツに宛てて「幽斎への援軍で北国を通っていく」と書いたのが八月一日。栃木の忠興が「救援出陣の発令を一日に知っている」のなら、金沢の利長にも五日前後には届いているのではないでしょうか。よって利長が出陣したのは、早くても八月六日ってところです。

○『徳川家康文書の研究』に家康の利長宛て返書「八月二十四日付」が収録されています。この手紙には「利長が尾山城に帰還したこと」が書かれています。出典の「加賀藩前田家」の史料には注記があって、「十日、公凱旋。即日野村五郎兵衛重猶を以て神君へ前条戦状の次第ならびに帰陣の由を告げ、且重て出陣の命を乞せらる。神君感悦有て公へ手書を賜う」というもの。利長の帰城を十日のこととし、その日に報告の使者「野村」を送ったと書くのです。そのうえで「野村十日発足の使者に二十四日の御書、戦国には不審也」と書くわけですね。確かに金沢から江戸へ「十四日間」では、日にちがかかりすぎです。だとすれば「十日に帰城」のほうが問題なんですよ。ちなみに史料注記でも「此御書の日付十四日の誤写なるか。然れども村井への御書日付も二十六日也」とあって、「二十四日は間違いで、十四日を誤写したようなのだが、村井重頼宛ての御手紙も二十六日の日付だし」と、遠回しに「二十四日で正しいのかなあ」と言っているくらいです。

○そもそも疑うべきは「注記」のほうなんですよね。「利長公が凱旋」とか「再びの出陣命令を家康に願う」とかって書くのは、時代が下がって、合戦のやり方もわからなくなって、城は攻め落とすもの、敵は合戦で殺すもの、と思い込んでしまっている証拠なんです。「大聖寺城を攻め落として帰還した」のを「凱旋」と解釈し、「関ヶ原決戦の前に帰城した」ことを「敵を倒したから帰還したが、これで終わりではなく、次の敵を求めている」と解釈しているわけ。結局「史料記述者の解釈」を除去してみれば、残る内容は「大聖寺城を落とした」と「早々に帰城してきた」の「二つの単純な事実だけ」でしかないわけでして。

○家康の返書が二十四日付なので、逆算すると、利長の帰城は十六日ぐらいになるでしょうかね。すると「五日ぐらいには出陣命令が届いている」はずなので、戦争期間は約十日となります。金沢を出陣し、小松城を包囲封鎖して、次の大聖寺城に到達したところ、ここでも抵抗されたので「怒りを抑えきれずに攻撃してしまった」と考えた場合、かなり悠長な経過日数です。城への突撃を五日も六日もやっているのはフィクションです。よって「十日の帰城」ではなく「十日の出陣」と見るべきかもしれません。それだと戦争期間に問題はなくなりますが、今度は反対に「家康の出陣命令が届くのが遅すぎる」となってしまいます。この疑問点から推測しうる「可能性」は三つです。手紙は常に最短で届くとは限らないので、たまたま「遅れて届いた」か、または「誰かの到着を待っていた」か…。

○細川忠興が北陸へ行った可能性も出てきましたね。忠興の合流を待って、それから出陣したので十日ごろになった可能性もありうるってこと。そして第三の可能性として「家康の命令が届き次第、六日前後には出陣した」も考えられないわけではありません。「無茶な城攻めで自滅した」からと言って、救援出陣を安易に投げ出して、帰城してしまうというのは、さすがにありえないように思うんです。よって「利長帰城」の背景には、丹後から使者が来て「敵は仕寄もなく包囲戦をしているのみ」の最新情報を伝えていることが考えられます。家康が「尾山まで御帰陣の由、尤もに候」と書いて「帰城も仕方ないですね」と認めているのは、単に「兵力を損なった以上、しょうがないね」というだけでなく、丹後の情報も聞いたから「焦る状況でもなさそうだし、まあ仕方ないか」という理解があったゆえではないでしょうか。そうすると、考えられる状況は二通りです。「十日前後に出陣し、大聖寺城を攻め落とし、どうにもならなくなったところに、ちょうど丹後から使者が来た」「六日前後に出陣し、大聖寺城を攻め落とし、先へ進むこともできなくなって、動きを停めていたら、丹後から使者が来たので帰城を決断した」。さあ、どっちでしょう?「物語」ならば後者のほうがマシですけども、現実の中には「ちょうどそのときたまたま」が、あったりしますんでねえ。

○ここから先は「状況証拠」とも言えないものです。忠興の手紙に「幽斎へ後詰め」とあることから、「前田軍にあとで合流する予定だった」と推測し、家康の返書に「そちらの状況を知りたくて何度も飛脚を送った」とある点も見て、利長へは「すぐに救援出陣に出ろ」と伝えていた可能性を考え、加賀藩の「注記」が記す「十日の帰城」を考慮すれば、「利長の出陣は六日ごろ。八日には大聖寺城を攻め落とし、被害の出た部隊が尾山城へ撤収してきたのが十日」という解釈も可能です。その場合「利長は前線の大聖寺にとどまっていたが、丹後からの使者が十四日に来て「敵は仕寄もしていない」と伝えたため、撤兵を決意し、十六日に尾山城へ帰着した」となるでしょう。二十四日付家康の返書がある以上、どのみち「ケツ」は決まっているんです。ゆえに幽斎の使者が丹後を出たのは十日ごろ。少なくとも「輝元の仕寄命令」が出たあとの情報が来ています。その際に問題となるのは、「仕寄命令」を利長が知りえたかどうかの点ですね。利長が焦って城攻めをしてしまった背景に、「田辺は陥落間近」の意識があったかどうか…。

○難しい問題なんですよね。兵法の常識で普通に考えるなら、「仕寄を仕掛けられたら、救援を諦める」けど、「仕寄を仕掛けられていないなら、救援に行く手段を模索する」ってはずなんです。ところが利長は逆の行動をしています。一方で家康は、そして忠興も、「田辺に仕寄がないなら、まだなんとかなる」と動き続けていくんです。このへんを考えると、一日以降に栃木を出て「北陸へ向かった」忠興は、「大聖寺攻めのあと。丹後の使者が到来まで」の間に、大聖寺で前田軍と合流しているような気がします。なぜなら戦後に忠興は「前田家と絶縁している」からです。『細川家史料』で「大坂の陣」の関連手紙を読むと、ちょうど利長が病没しているのに、忠興は一つのアクションもありません。かつて縁戚だったとは思えないくらいに冷淡です。よって利長の出陣を六日、大聖寺攻めを八日と見て、忠興の着陣は十日過ぎって感じで見ましょうかね。そして十四日、撤兵する利長と別れた忠興は、清洲を目指して移動していったように思うのです。
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