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2017年09月29日02:10

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本史関ヶ原38「実は正直な黒田如水」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、九州の中津にいる黒田如水が、吉川広家に宛てた返事の手紙。これを分析していきます。

●五一号二番8月4日「返信」黒田如水「宛」吉川広家

○五一号二番は「伏見城攻撃の理解」で使った史料です。前文に「先月二十三日のお手紙、昨日拝見」とあって、吉川が「七月二十三日の大坂情勢」を伝えてきたことがわかるからですね。「吉川の伝えてきた内容」を具体的に書いてはいませんが、本文中に「このたびは合戦にならないと思う」と「日本がどのように変わろうとも」の記述があり、「まだ戦闘衝突は始まっていない」けども「日本が一変しかねない事態にはなっている」ことが推測されますので、「徳川家に対する実力行使、伏見城への包囲布陣が発令された」と見たわけです。もちろん八月四日であれば「すでに伏見城は落ちている」のですが、それを如水は知りえません。大坂から中津まで、早くても「船で五日」はかかるのですから。

○さて。五一号二番の本文には「豊前のことは、少しも御気遣いをなさいませんように。加藤主計と話し合ったので、どこから仕掛けがあったとしても、ひと合戦で済むでしょう」とあったわけです。これを前回「輝元からの上洛要請を受けた清正が、大坂へ行く途中で中津に立ち寄った八月三日ごろ、ちょうど吉川の手紙が来たので、話し合った」としてみたわけです。たまたま輝元の手紙が遅れて届いたので、たまたま三日ごろに中津へ来ていたら、たまたま吉川の手紙がこれも遅れて届いてきた、という「たまたま」の連続。物語としては、かなりひどいレベルですね。無論「事態を予測していたので、事前に話し合っていたのだ」と解釈することも可能で、その場合「如水の記述は、三日に清正が中津にいたことの証明にならない」と言えるでしょう。そして五一号二番には「天下のなりゆきは、言ってもしょうがないことです。こんなこともあろうかと、つねづね考えておりましたから、驚きませんけどね」の文章があるんです。原文は「天下成行、不及是非候。かようあるべきと、つねづね分別仕候間、おどろき不申候」で、なるほどこれなら「如水は戦争の勃発を予期していたのだ」と、言えそうな感じ。

●三五号7月21日「差出」細川忠興「宛」松井康之
●五四号8月3日「返信」伊達政宗「宛」井伊直政、村越直吉

○これらも同じで、三五号には「こんなこともあるだろうと、前から言っていたことだ」の記述があります。「石田に謀反の噂」を宇都宮で知った細川忠興が、すぐに杵築の松井へ指示を送ったもので、原文は「如此可有之と、かねて申たる事に候」です。五四号は仙台の伊達政宗が「謀反の噂」の報せを受けて、返事を書いたもの。「これぐらいのことなら、若輩ながら見通していました」と書いていて、原文は「是程之事は若輩ながら見届申候」です。如水の「こんなこともあろうか」と同様に、さながら「石田が挙兵して、それに毛利が味方して、徳川と全面戦争になるようなこともある」と「予測していた」かのように読めますけども、それは「手紙の理解に、未来の結果を持ち込むから」です。単に彼らは「何か不測の事態が起こりかねない」という「予測をしていた」だけのこと。細川忠興、伊達政宗、黒田如水。戦乱を生き残ってきた戦国大名は、常に最悪の事態を想定していたのでしょう。「秀吉によって天下静謐となったが、残されたのは幼君で、しかも代行権者の家康が畿内を離れるとなったら、何かあってもおかしくない」と考えていたわけでしょう。要するに「危機管理」の問題。それを「石田の挙兵を予測していた」と「結果に合わせた解釈」にしてしまうから、「豊臣と徳川の対立を、誰もが事前に気づいていた」の解釈になるってわけ。

○「戦争になるのを知っている」くせに「危機管理の意識がない」定説は、「伏見で鳥居が戦死」も「大坂屋敷でガラシャが自害」も、不思議に思わないってわけ。「だって戦争なんだから、人が死ぬのはあたりまえ」で、起こるとわかっている戦争に「備える」とは、「死ね、と事前に命じておくことだ」と思うってわけ。三五号で忠興は「番兵の末端まで残らず連れて、丹後へ行くようにしろ。状況によっては松倉も捨てて、女たちも連れ、宮津へ行くことも判断しろ」と書いていますが、「こんなの嘘だあ」と思うだけ。史料を無視して終わるだけ。

○忠興は「最悪の場合は城を捨てろ。如水の城へ移れ。如水とは事前に話し合ってある」と書いています。本領地から遠く離れた「飛び地領」の安全保障を、近在の如水に頼んでおいたわけですね。「万一に備える」とは、こういうことのはず。八月三日に「事態を知った」如水は、きっと松井にも報せてくれたことでしょう。「そのとき清正にも報せた」と考えることは可能ですが、その場合の原文は「可申談候」の未来形となって、「これから清正と話し合う」となるはずが、実際は「申談候間」です。ちなみに忠興の原文は「兼て申合ておき候」で、明確に過去形です。この点を見る限り、「事前に」でも「これから」でもなく「吉川の手紙が来たとき、ちょうど清正がいたので、話し合った」となりそうじゃないですか。しかも輝元は、清正に「大坂へ来たほうがいい」と報せていたのだし、それを吉川が知っていれば、如水の返事を読んで「清正は熊本を出て、中津までは来ていたのだな」と理解できるじゃないですか。だから如水は「清正のこと」を手紙の中に「わざわざ書いた」のだろうと思うのですけど…。

○考えてみてください?「どこから仕掛けがあったとしても、ひと合戦で済むでしょう」と書いた如水。これを「黒田は東軍、吉川は西軍」という「結果」を持ち込んで読めば、宣戦布告にも等しい文章ですよね?「おまえらが攻めてきたって、敗けねえよ」と公言している意味ですよね?「豊前のことは、少しも御気遣いをなさいませんように」の文章も、「ご心配なく。自分の領地は守ってみせますから」の挑発にしかなりません。この意味の中で「清正と話し合った」の言葉は、それが「事前」であれ「今」であれ「これから」であれ、「清正も、おまえらに味方しないからね」と、わざわざ清正の分まで敵対宣言をした意味にしかならないじゃないですか。でも「吉川とは友人だ」の前提で読めば、あえて「どこから」の言葉で「敵を特定していない」ことのほうが重要です。原文は「いづれより仕懸候はば」です。とはいえ、吉川だって「如水の息子が関東に出て、家康のほうにいる」のは知っているし、「吉川がそれを知っている」ことを如水は知っています。だから「日本がどのように変わろうとも、あなたと私の関係は変わるものではないので、そう理解しておいてください」と書いたわけでしょう。つまり「敵対する気はありません。清正も、秀頼様への忠節とあらば、こうして上洛する途中だったのです。でも、家康公との関係が悪化するようだと、われらは徳川家の側につかざるをえなくなるかもしれません」と、自分の苦しい立場について、婉曲に、しかし正直に、吉川へ伝えているってことですよね?
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