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2019年07月06日00:42

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合戦考証60「虚像の信長」島原の乱

○「島原の乱」に関する手紙史料なのに、最後には「信長の話」になりました。具体的なことは書いてないのですが、理解するためのヒントは、確かにあります。

○「岐阜、関ヶ原、豊後、大坂」で、忠興がやった論功行賞を、忠利は「見ていた」と書いていました。そして「同じようにしたい」と言っていました。しかし忠興は「岐阜、関ヶ原のことを言ってこられましたが、今度のとは状況が違います」と答えたのです。「関ヶ原」とは、関ヶ原合戦のクライマックス「関ヶ原での決戦衝突」を指すのでしょうし、「岐阜」は、その前哨戦にあたる「岐阜城攻め」のことだと見られます。このうち「関ヶ原の決戦」と「今度の原城攻め」では、明らかに「野戦と攻城戦の違い」がありますけど、「岐阜城攻め」は同じ攻城戦で、しかも「ほぼ一日で攻め落とした」点でも同じです。何が違うの?

○通説の「岐阜城攻め」を信じる限りでは、布陣してから落とすまでが「ほぼ一日」なんですよね?「原城攻め」では事前の仕寄の作業を、一ヵ月以上もやっていたわけです。江戸期の武士団が「慣れてない」せいで、こんなに手間がかかったのだと仮定しましょうか。ゆえに「岐阜城攻め」では「その日のうちに仕寄をし終えて、その日のうちに攻め込んだ」と考えても、それは「外構え」の話なんじゃないですか?「二ノ丸などの内郭」には仕寄をする時間もないわけで、だったら「原城攻め」と同じになったはず。せっかく三ノ丸には仕寄で乗り込んだのに、その先で無茶な突撃をしたせいで、細川家には二千人規模の死傷者です。その後の「城の破却作業」にも支障が出たし、「山狩り」は参加を免除されたくらいの被害状況です。勝利してさえ、こうなんですから、岐阜城を攻めた福島軍や池田軍は、関ヶ原決戦に参加できうる兵力など、残ってなかったことでしょうね。

○「そんなことはない」と反論する人は、もしかして「江戸期の武士と、戦国期の武士では強さが違う」と言うでしょうかね。けれど「岐阜城の織田秀信軍」だって「戦国期の武士」たちですからねえ。ゆえに、どうしても反論するなら「福島軍も池田軍も強いんだ。岐阜城を攻め落としても、負傷しないくらいに強いんだ。原城の攻撃で細川軍に被害が出たのは、細川軍が弱いからだ」と言うしかないと思います。そして実は、この考え方こそが「一番の大問題」なんですよねえ。

○「合戦とは、攻めるもの」という考え方の場合、「主君が攻め込めと命じた」ので「家来たちが攻め込んだ」となりますから、勝敗の行方は「勇敢に戦った家来たち」の力量で左右されるんです。要は「福島正則の家来衆」が「織田秀信の家来衆」よりも強いから、福島正則が勝つってこと。だとすれば、主君は「家来たちの働きのおかげで、勝たせてもらう」ことになるわけで、だからこそ「働きに応じて論功行賞をする」という考え方にもなっていくんでしょうし、その結果として、家来衆のあいだで「誰が一番なのか」という競争が生じるんでしょう。

○では、反対に「合戦とは、基本的に待ち受けて、防御するもの」と考えてみてください。その場合、家来の誰をどこに布陣させるかは、主君の判断によるものです。そのとき「敵がどこに攻めてくるか」は結果であって、主君が決められるはずもないわけですから、たまたま自分の配置されたところに敵が攻めてきたなら「戦うことになる」ってだけのことです。家来の働きは「主君の配置次第」ですから、「前の合戦では自分のところに敵が来たけど、今度の合戦では来なかった」ということにもなってきます。すると忠興は「失策もないのに結果の悪い者たちは不憫なものだ」と書いていたじゃないですか。主君としては、家来の誰にも「戦うチャンス」を与えたいけど、確実性の高い場所だけに布陣しているわけにはいきません。敵に「裏をかかれない」ように、可能性の低いところにも布陣しておく必要があるわけだし、可能性のほとんどないところにも、場合によっては「後詰めの布陣」をしておく必要があったりもします。それを判断するのは主君だし、誰をどう配置するのかも、決定権は主君にあるのだし、万一にも「布陣の位置が悪くて、敵に裏をかかれて、敗北する」ようなことになったら、それこそ「主君の責任」というもの。そうならば、合戦の勝敗を左右するのは「主君の戦術能力」であって、「家来の戦闘能力」ではないことになりますね?「家中の皆が、それぞれ与えられた場所に責任を持つ」となって、内輪で手柄を競い合うことにも意味がなくなって、「家中が一丸となって、家を守る」となりません?

○というわけで、「今度の原城攻め」と「以前の岐阜城攻め」で何が違うのかと言えば、要するに「合戦の理解と、城攻めのやり方」が違うんですよ。けれども不思議なもので、忠利の手紙を読んでいると、黒田家へのライバル心がむき出しで、さながら「誰が一番、上様に御奉公をするか」で競い合っているかのようなんです。きっと主君がそうだから、家来たちも内輪の中で「誰が一番手柄を立てるか」を競い合うんでしょうね。だから「詮索を必要とする」んでしょう。そして「物語の中の信長」も、各地の戦国大名たちと「競い合って」天下取りをするのだし、織田の家中では、秀吉を筆頭に「手柄を競い合う」わけですよね?

○忠利でさえ「こういう考え方をしている」んですから、江戸期に書かれた「軍記物語」などは、推して知るべしってもの。たとえ『信長公記』を読んでも、それこそ『織田信長文書の研究』に収録される「信長の手紙史料」を読んでも、物語で「すりこまれた」概念で読む限り、誤読するだけでしかないんです。そもそも「突撃攻城戦で城を落としても、負傷者が出ない」くらいに「強い」なら、受傷を証拠とする詮索なんか「できっこない」わけで、はなから詮索などありえないはず。軍記物語は現実ではないんです。いい加減、捨ててくれませんかねえ?
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