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2019年07月02日00:39

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合戦考証59「詮索の抜粋」島原の乱

○「往復書簡」の内から「詮索」に関する部分を、改めて提示します。

●忠利九三一「4月12日」第一文の抜粋
「このたび有馬の城で、よく勤めた者たち(の状況)を聞き届けることを、(私が)先延ばしにしている、と(忠興様は)思っておられることでしょう」

●忠興一五二一「5月1日」第二文
「一つ、このたび有馬の城で、よく勤めた者たちを聞き届けること、私が遅いように思っているだろうと(誰かに)聞きでもしたのでしょうか。一切そんなふうには思っていません。昔はこういう詮索をしていません。(中略)信長の御代などでは、こんな詮索をすることが一切ありませんでした。失策もないのに、結果の悪い者たちは不憫なものです。(働きの)悪かった者に大勢がなってしまうようでは、心が痛く思います」

●忠利九三五「5月13日」第二文
「一つ、家中で有馬の詮索をすること、いろいろに選ぶわけではありません。このたびは大勢が戦いましたので、(戦闘の)証拠がなければわからないことになりますゆえ、それぞれの働きを、証拠で示すのを聞いてから(褒美を)与えるだけのことです。五人や十人が戦った程度なら、そのままわかることですけど、急に駆けつけて、大勢が一度に(城へ)入り込みましたから、それぞれに働いたことも、一人一人が証拠を立てて、間違いないことを言いたがりますので、それを聞いてから与えるのです。岐阜、関ヶ原、豊後、大坂などで戦った者たちを、どの者も(忠興様が御前に)呼び出されまして、御知行、御褒美、それぞれに下されましたのを見ておりましたので、同じようにしてみたく思い、こうしているのです。昔はこのような詮索がまったくなかったとのこと。(中略)信長様の御代には、こんな詮索をすることが一切なかったとの話を伺いました。このことについては、教えていただきたいことばかりが多くございます。(後略)」

●忠興一五二六「6月4日」第一文〜第三文
「一つ、家中の有馬での剛臆の詮索ではないとのこと、納得です。誰にしても証拠がなければわからないことなので、その証拠を聞き分けてから(褒美を)お与えになるとのこと、なるほど(そうするのも)仕方ないですね。岐阜、関ヶ原のことを言ってこられましたが、今度のとは状況が違いますので、一切の詮索をしていません。豊後でのことは、私が見ていないことではありますけど、ちっとも詮索をしなかった理由があるのです」
「一つ、大坂で戦った者も七人でしかないので、紛れもないのですが、二三のことを聞くために四〜五人を呼び、明らかにさせました。それは、ちっとも詮索をしたというようなことではないのです。あのときのようすを知っている者もいるでしょう」
「一つ、信長の御代には、武辺の詮索を、奉行を付けて御聞きになることなど一切なかったのです。その理由を、手紙で納得(させるの)は無理ですね」

●忠利九三九「6月25日」第二文
「一つ、岐阜、関ヶ原、豊後、大坂、また信長様の御代。武辺の詮索のようすは手紙では納得しないだろうとのこと、このことについては(直接に)お話し申しあげて、御教示いただきたい(と思う)ばかりでございます。言うまでもないことですが、上も下も共に不案内なものですから、お話を(させて)いただきたいことが多くございます。御推察くださいますように」

●忠興一五三一「7月19日」第三文〜第五文
「一つ、総見院殿の御代は、武辺の詮索などのことを(いちいち)聞かなかったと書きましたこと、信じられないと思います。また、岐阜、関ヶ原、豊後、大坂のことは、詮索をするべき理由が、私の軍には一切なかったのです。そのうちでも大坂の件は、五〜六人のあいだで、少しのあとさき(があった件)を言ったまでです。また、太閤の御代のことですが、偽りを申告した者もいましたが、ちっとも詮索をするだけの理由にはならなかったのです」
「一つ、昔の者は経験者で、今の者は初心者と、言う意味はないだろうと思います。前(の時代)でも、(戦場には)年配者も若者もいたわけですが、どちらかが経験者で、初心者であるというようなこともなかったからです」
「一つ、前の手紙で(こういうことを)書きましたのは、歴々の者たち、誰についても詮索しにくいことだと思ったので、知っているとおりに教えたまでです。別の思惑とか、私は一切、考えておりません」

○「島原の乱」に関する「細川家往復書簡」の史料価値は、第一に「仕寄の実際状況について具体的な記述がある」こと。第二に「軍法の問題」で、そして第三が「詮索」について書いている「この部分」でしょう。仕寄については「書いてある文章を読めばいいだけ」のようなものですが、それさえも「世間に知られていない」のですから、詮索の「理解」など、ありようもないってことです。「一五三一番」の第三文で、忠興は「私の書いたことを信じられないと思う」と書いています。原文は「可為不審と存候」です。だからって忠利が「こんなの信じられない」と拒絶しているわけではありません。「九三九番」で「手紙では無理ならば、直接に会って話を聞きたい」と書いています。原文は「御物語申上、得御意度事のみにて御座候」です。きっと次に江戸へ行ったおり、父に「教示を願った」ことでしょう。しかし現代では「こんなの信じらんない」で終わるだけ?
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