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2026年01月18日09:18

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週プロ流智美あの日あの時予想2025年総括(12)

第383戦、3月26日発売号●【予想】アントニオ猪木vsモハメド・アリ世紀の大一番調印式(76年【日本時間】ニューヨーク・プラザホテル)【正解】新専門誌ゴングが創刊&発売(68年3月27日)

【参考】2014年3月26日発売号は、浜口が気合で王座奪回!国技館を感動させたベストバウト!IWA世界タッグ選手権試合、ビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘス組vsグレート草津&アニマル浜口組(82年国際プロレス蔵前国技館)

【予想解説】76年2月24日付ロサンゼルスの地方紙である「ヘラルド・エグザミナー紙」がプロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王者モハメド・アリと日本のプロレスラー、アントニオ猪木が6月に東京で対戦すると報じられ、2月26日、日本にもニュースが入って来ました。

ことの発端は前75年3月24日74年10月30日、アフリカ・ザイール共和国キンシャサでジョージ・フォアマンに8ラウンドKO勝ちで絶対不利と言われた闘いを制し「キンシャサの奇跡」と呼ばれ世界ヘビー級王座に返り咲いたアリは、オハイオ州クリーブランドで、無名の世界ランキング8位、チャック・ウェップナーと初防衛戦を行い、ダウンを奪われるも15ラウンドTKO勝ちで初防衛に成功。(この試合をテレビ観戦していた当時28歳の無名時代のシルベスター・スタローンがインスパイアされて「ロッキー」の脚本を一夜にして書き上げたというのは有名な話)

この試合の後、アリは「次は東洋人とやりたい。俺と闘う勇気のある東洋人はいないのか!ボクサーじゃなくてもいいぞ、空手家でも柔道家でもいい。100万ドルので賞金を用意する」とアピール、当時の自民党衆議院議員で日本アマレス協会会長であった八田一朗氏がこの話を聞いて「これは面白い話」と動きました。

猪木は話を聞いて「俺が対戦したい」と名乗りを上げて、同年6月9日、マレーシアのクアラルンプールでジョー・バグナーと防衛戦を行う(試合は7月1日)時、トランジットで羽田空港に立ち寄ったアリに新日本プロレスの杉田豊久渉外担当が猪木の「挑戦状」を渡しました。

その時のアリの反応は「イノキ、フー?(誰?)」というものでアリ得意のジョークかと思われましたが、猪木はその後もエージェントを通してアメリカで交渉を続け、いよいよ、本当にアリとの対戦が実現することになった訳です。

日時は6月26日場所は東京の日本武道館と発表されました。

これを受けて2月28日付(27日発行)の東京スポーツでは一面で「アリ、『猪木と戦争だ!』」とアリが猪木戦ヘ向けて臨戦態勢になったと報じ、同日27日、「ビッグ・ファイト・シリーズ」後楽園ホールからのテレビ生中継で猪木はインタビューに応じアリとの対戦実現に向けて動き出すことを明らかにしています。

3月18日蔵前国技館で「ビッグ・ファイト・シリーズ」が閉幕すると、猪木は倍賞美津子夫人(当時)を伴い、3月25日(現地時間)、ニューヨーク・プラザホテルで行われる調印式出席の為に渡米。 

猪木は紋付、羽織袴で出席した調印式に出席、トラッシュトークで挑発するアリに対し終始一貫して静かな微笑で対応しています。

【正解解説】2012年日本テレビ「全日本プロレス中継」の解説者で雑誌「ゴング」でお馴染みだった元日本スポーツ出版社代表取締役竹内宏介さんがお亡くなりになりました。享年65歳。

竹内さんは06年11月に脳梗塞で倒れ実に5年半の長きにわたって闘病生活をされて来ましたが残念ながら帰らぬ人となってしまいました。

プロレスマスコミの偉大なる重鎮であり、プロレスの生き字引だった竹内さんの功績を讃え、本日より短期集中連載として竹内さんの追悼日記をお送り致します。

竹内さんは47年1月6日、静岡県熱海市出身で東京の下町台東区育ち。幼い頃テレビで見た力道山の試合に影響を受け、プロレスファンとなります。

プロレス雑誌の記者を志し65年に18歳でベースボール・マガジン社に入社し月刊「プロレス&ボクシング」の編集に着手します。

そして翌66年弱冠19歳という若さで同誌と「月刊ボディビルマガジン」の編集長となりました。

19歳というとまだまだ子供であり今ではまずあり得ない話だと思いますし力道山死後だったとは言え国民的人気スポーツだったプロレス雑誌の編集長に抜擢されたのか。

プロレス少年だった竹内さんは抜群の記憶力を持ち、美しいレイアウト、インタビュー、海外もの記事、写真撮影を一人でこなす天才記者でまさにこの仕事をする為に生まれて来たような人でした。つまり「一人でプロレス雑誌一冊を作ってしまうような人」だったのです。

当時のプロレス記者と言えば東京スポーツ新聞社の山田隆、桜井康雄、門馬忠雄、デイリースポーツの石川正清、日刊スポーツの鈴木庄一、67年に大阪で創刊した週刊ファイトの松下正雄、フリーの菊池孝らペンの侍達が多数おりさらに大御所として明治生まれの田鶴浜弘(敬称略)らがおりました。

竹内さんはこれら曲者揃いの先輩記者達に「坊や」(顔が童顔だった)と呼ばれて可愛がられており、メキメキ頭角を現します。

そして68年、小柳幸郎、池正義らが中心となって設立された日本スポーツ出版社はプロレスとサッカーを売りにする雑誌を出版する会社でしたが竹内さんは日本スポーツ出版社に編集長として移籍、まだこの時21歳でした。

68年3月27日記念すべきプロレス、ボクシング、キックの専門誌「ゴング」の創刊第1号が発売されています。

これで日本におけるプロレス専門誌はベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」と「ゴング」の2大誌時代に入っていきました。

※対戦成績は383戦61勝322敗、勝率159。
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