第377戦、2月12日発売号●【予想】猪木、タイガー・ジェット・シンの挑戦者指名に抗議してNWF世界ヘビー級王座を返上(75年2月11日【現地時間】ニューヨーク州バファロー)【正解】国際プロレスの運命を左右したエースのフリー宣言(74年2月12日)
【参考】2020年2月12日発売号は●【予想】新日本プロレス、初のフィリピン遠征(84年2月12&13日フィリピン・ケソン市アラネタ・コロシアム)【正解】◎デビッド急死! 葬儀でブロディが流した大粒の涙、デビッド・フォン・エリック告別式(84年東京 渋谷バプテスト教会)※2014年2月12日発売号は天山が覚醒!維震軍、選手会を敵に回し後楽園を制圧!長州力&橋本真也&平田淳嗣組vs蝶野正洋&天山広吉&ヒロ斉藤他(95年平成維震軍、新日本プロレス昼夜興行後楽園ホール)
【予想解説】73年5月に何の前触れもなく新日本プロレスのリングを襲撃したタイガー・ジェット・シン。73年11月5日には新宿・伊勢丹前で買物中の猪木、倍賞美津子さん夫妻を襲撃するなど狂気の沙汰を展開。74年6月26日大阪府立体育会館でのNWF世界ヘビー級選手権試合では、猪木がシンの右腕を折るという恐怖のアクシデントを生みました。
75年2月11日NWF本部はシンを挑戦者に指名して日本に送り込んで来ましたが、猪木は「挑戦者としての資格に欠ける」としてこれを拒否し、ニューヨーク州バファローにあるNWF本部に乗り込んでベルトを返上。
王者にベルトを返上されたNWFでは責任を取ってデビッド・ヘルマン(ディック・フェラルドマンと表記している文献も有り)会長が辞任。NWFでは特使として猪木の師匠であるカール・ゴッチを派遣、猪木にベルト返上を取りやめさせるよう説得にあたりましたが、猪木は「筋を通す」としてベルトは返上。その代わりシンと王座争奪二番勝負を行うことを了解しました。
第1戦は75年3月13日広島県立体育館で行われ、猪木がシンの秘密兵器ブレーンバスターからカウンターの凶器入りナックルパンチの前に19分26秒、体固めでフォール負け。「挑戦者としての資格に欠ける」シンに王座を奪われてしまいました。
3月20日蔵前国技館では新王者となったシンに猪木が挑戦。猪木はシンを鉄柱攻撃、ナックルパートで流血させ試合を有利に運びましたが、19分1秒、両者リングアウトで逃げられ、シンが初防衛。NWF世界王座は海外流失となりました。
5月19日カナダ・ケベック州モントリオール・ポール・サウベ・アリーナでは猪木が再挑戦しましたが1-1から反則勝ちでタイトル移動せず。
6月26日蔵前国技館でシンは「猪木の挑戦を受けるのはこれが最後」として3度目のリマッチ。1ー1から猪木がバックドロップ2連発でシンをフォール、ついにNWF世界ヘビー級王座を奪回しました。この時シンは勝者猪木の手を高々と上げて健闘を祝福しています。
【正解解説】74年国際プロレス「新春パイオニア・シリーズ」が閉幕した1週間後の2月8日、エースでありIWA世界ヘビー級王者であるストロング小林は辞表を持って新宿区高田馬場にある国際プロレスの事務所を訪れ、吉原功社長に退団の申出をしたものの、慰留され話し合いは平行線に。
この話を事前に察知していた「ゴング」は小林に電話取材を行っており、これに対し小林は「団体の外に出て自分の力を試してみたい、馬場さん、猪木さん、坂口さんと対戦してみたい気持ちはある。」と回答。この時点でジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二の名前が出ているということは馬場はダミーとしても新日本プロレスからの誘いの話はあったと思われます。
翌2月9日にも小林は国際プロレス事務所に再度現れ、退団を申出。この時も吉原社長には慰留されていますが、吉原社長は「ゴング」の取材に対し、「どうするか見当もつかないが、本人の意思が固いのでどうしょうもない。うちには草津、木村、井上もいるので小林に代わるエースに育てていく。」と小林の退団は止められないといった発言をしています。
元新日本プロレス営業本部長で「過激な仕掛け人」と言われた新間寿は当時を振り返り、「小林さんが国際プロレスを辞めたがっているという話は聞いていた。そこで猪木に『ウチに入れたい』という話をしたところ『新間、ただ入れただけじゃあ、つまんねぇだろ』と言われてピンと来たね。」と語っており、ここで猪木vs小林の世紀の一戦を思いつきました。
それ以来、新間は水面下で猪木vs小林の日本人同士の他流試合実現に向けて小林と交渉、このことは馬場の耳にも入り、小林を新日本プロレスに行かせてはならじと馬場も小林と交渉を開始。
結果的に新日本プロレスが小林を獲得する訳ですが、これには小林の母親(95年に死去)の意向があったと言われています。小林の青梅市小作の自宅は当時としては新しい「親子電話」になっており、小林の母親が馬場と新間、との交渉を親機を使って全部聞いていたということです。
馬場が「小林よ」と業界の大先輩として呼び捨てで応対していたのに対し、新間は「小林さん」と終始「さん」付けで敬語で話していたとのことで、馬場は先輩としては普通の対応ぶりでしたが、新間は常に下手に出て小林を立てました。
新間が「これはいける」と思ったところで「今、横に猪木がいます。代わりますからお待ち下さい」と猪木が電話口に出て「小林さん、猪木です。何も心配要らないから安心して来てください」とダメ押し。「究極の人たらし」猪木の話術の前に小林は陥落、猪木に挑戦、新日本プロレスへの移籍が事実上既定路線となりました。
2月13日付(12日発行)東京スポーツ一面にて「S小林が国際プロレスに辞表提出、フリー宣言」という記事が報じられ、翌13日午後より小林は国際プロレスの事務所から程近い西早稲田の喫茶店「ルナ」にて記者会見を行い、「国際プロレスを離脱、フリーとなり馬場、猪木に挑戦」をぶち上げました。
小林は自筆の「声文書」を読み上げています。「私、ストロング小林は2月2日をもってフリーとなりました。プロレスラーになって8年間のキャリアを積み、皆様のお陰を持ちまして世界チャンピオンとなり、国際プロレスのリングにて頑張って参りました。しかし、昨年は私には最低の年であり、吉原社長を初めファンの皆様の期待に応えることが出来ませんでした。
私としましては、国際プロレスの名の元に吉原社長の温情に甘えていた点が多くあったことを反省し第一歩からやり直し、ストロング小林の名に恥じぬプロレスラーとして立ち直る決心をしました。
この恩に報いる為、今後は1、2年は一匹狼としてやり直す覚悟であります。出来ればジャイアント馬場選手、アントニオ猪木選手と闘って自分の力を試してみたい気持ちで一杯です。皆様のご指導、ご鞭撻を今後ともストロング小林にお与え下さる様、お願い申し上げます。昭和49年2月13日ストロング小林」
小林の声文書ですが、あまりに綺麗事と言いますか、日本人特有の「立つ鳥跡を濁さず」的文章と言いますか、これを見て額面通りに受け取る人はまずいなかっただろうと思います。
※対戦成績は377戦60勝317敗、勝率159。
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