12/4(土)、賀茂真淵記念館講座「渋沢栄一と赤松則良」(全3回)の第1回目を聴いてきた。
今回の演題は「幕末、パリで出会った二人」。
講師は磐田市歴史文書館長 木村弘之。
今回は、新型コロナにおけるオミクロン株の感染状況もあり、ソーシャルディスタタンスを確保するため聴講者を2部屋に分けた。半分は隣室で、リモートでの聴講となった。
1.「はじめに」
今回は、渋沢栄一(1840-1931)と赤松則良(あかまつのりよし/1841-1920)が幕末のパリ万博で出会った頃に焦点を当てる。渋沢は赤松の1歳上。
今年は赤松則良の生誕180年でもあるから、青年期の赤松の人間像にも触れたい。
1次史料として、両者の書簡を見る事とする。
・渋沢栄一がパリ滞在中に赤松則良に宛てた手紙7通より。
現在は国立国会図書館憲政資料室所蔵。旧くは赤松家が持っていたもの、孫で磐田市市長も務めた赤松照彦(てるよし)が磐田市に寄贈した。
赤松則良も渋沢に返事を出している筈だが、それらは関東大震災で焼失したと考えられる。
・その他、渋沢栄一の赤松則良宛ての手紙。
東京都北区にある渋沢資料館に、孫の公男(則良の長男 範一の五男)夫人が寄贈したもの。国立国会図書館憲政資料室で公開されている。
手紙に入る前に、今回は2人の人物史を眺めておく。
2.「パリ万博、そして留学」
�―詑�栄一の生い立ちからパリ万博随行決定迄
渋沢栄一は1840(天保11)年2/13、武蔵国榛沢郡血洗村(現 埼玉県深谷市血洗島)で生まれた。
血洗村には10数件の渋沢家があったが、その宗家(本家)で栄一は出生。藍、麦、養蚕を手がける豪農だった。
幼少期は読書と剣術に熱中。13歳頃より農商業に携わる。
ある日、父の名代として陣屋に行った時の話、傲慢な態度の代官から屈辱的な扱いを受け、その反撥から、栄一の心には尊王攘夷思想が芽吹く。
17歳で隣村の従兄 尾高惇忠の私塾に入門。尾高の妹 千代と結婚。
20歳で江戸へ。栄一の思想と行動は倒幕へと傾いていく。
横浜外国人居留地の焼き討ちを計画するが、中止。
この一件が親類に影響しないよう、勘当を受けた事とし、従兄の渋沢喜作と京都へ向かう。
江戸で懇意だった平岡円四郎(一橋家家臣)と出会い、彼の推挙で一橋家御用談所下役の身分となった。士族となり、篤太夫を名乗る。
倒幕思想を持つ男が幕臣となったのである。
一橋慶喜(当時)は朝廷参与であったため京都に常駐していた。
第14代将軍徳川家茂が1866(慶応2)年7月に没し、12月、慶喜(1837-1913)が跡を継ぎ第15代将軍となる。
これにより、渋沢の立場も急変する。
�▲僖衙�博視察と留学 〜 滞在費等、渋沢の苦悩
1867年4月よりパリ万博が開催される事となり、慶喜の異母弟 徳川昭武(1853-1910/のち最後の水戸藩主に)が将軍名代として出席する事となった。
前年秋、渋沢は慶喜の側近に呼ばれ、随員に命じられた。昭武はパリ万博出席後そのまま仏留学、欧州各国を訪問する計画だった。
1867年1/11、13歳の昭武他一行33名は、フランス船アルフェ―号で横浜を出航。
随員は外交官と御供の2グループ。前者(外国奉行)は向山一履(むこうやまかずふみ)をトップとして、田辺太一、日比野清作、杉浦愛蔵。向山は初代駐仏公使として日仏外交を推進し、フランスから600万ドルの借款を受ける任務を託されていた。借款の多くは最新式銃の購入費となる筈だった。
後者は山高信離(やまたかのぶつら)、木村宗三、渋沢栄一、菊池平八郎他、7人の水戸藩士、昭武の身の周りの世話が主任務だった。
1/15上海、1/20香港、3/7パリ着。約2ヶ月を要した。書簡等、日欧の情報伝達には2ヶ月かかるという事を意味する。
パリではヨーロッパ最大(客室770)のグランド・ホテル・パリに宿泊した。渋沢は庶務・会計係として忙殺される。
昭武は幕府を代表し、第2帝政期(1852-70)のナポレオン3世(1808-73)に謁見、舞踏会、万博褒章授与式、晩餐会等様々な式典に出席、日本の代表として幕府を国際的にアピールした。
一行はパリ市内の名所旧跡を視察。渋沢は、宿泊その他費用の高額(*1)に驚く。節約しなければ、続く昭武の留学に影響が出る。彼は借家を探し、保険契約、什器購入、使用人雇用等に奔走。
(*1)
パリの高級ホテル(グランド・ホテル・ルーブル)の諸費用
・ローソク代…1本1フラン≒2,000円
・入浴料…2フラン≒4,000円
・食事その他…16〜17フラン
・ルームサービスのお茶…2フラン
・酒…1瓶5フラン
・部屋代(3階、窓1つのみ)…20フラン
〜昭武一行のグランド・ホテル・パりへの支払いは〆て7万フランとなった。
ホテルを出たあとの滞在費用
・料理人,門番,馭者etc.16名雇い入れ
・彼等にお仕着せの誂え
・家屋借入れと内装変更等の準備
〜合計26〜27万フラン
したがって、借家に入居する迄に一行は35万フランを使った計算になる。日本円で約7億円である。
��パリ万博の開催
1867年4/1〜11/3、セーヌ川沿いのシャン・ド・マルス(練兵場)を会場とした。
縦490m×横386mの巨大な楕円形パビリオン。同心円状に内部は仕切られ、外側から最新機械工業、内に向かい手工業,工芸,美術品が展示された。
会場の動力は蒸気によって賄われた。
会期中1,500万人の入場者があり、その後の万博の手本となった。
現在は同じ場所にエッフェル塔が建つ。
駐日フランス公使から勧誘され、日本が初めて公式に参加した万博となった。
日本は美術工芸品,農産物を出品し、高評価を得た。
�ぅ僖衙�博裏事情
幕府と薩摩藩との間で大きな摩擦が生じ、幕府権威失墜のきっかけとなった。
薩摩藩は先に到着し、「琉球諸島王 松平修理太夫」の名義で、幕府とは別の独立国として区画を得、既に展示を行っていた。国旗は薩摩島津家の紋章で、琉球国王使節として万博開会式に参列していた。
「松平」は徳川将軍家一門、また将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓である。
また、徳川家が、勢力や格式のある外様大名に授ける称号としての役割もあった。
松平の姓を、別の独立国として使う等、幕府としては許せない。
幕府一行はパリに到着後、薩摩藩に抗議をしたが、埒が明かなかった。
結局、万博会場では、幕府と薩摩藩,佐賀藩が同列という見解が広まってしまった。
これにより、フランスから受ける予定だった600万ドルの借款は中止となる。
数ヶ月後、責任を取り向山,田辺は日本へ帰国。
この後の欧州巡歴、留学滞在費の捻出には、渋沢を筆頭に大きな苦労をする事になる。
�ゲそ�巡歴の旅で学んだ事
昭武は招待行事や万博視察等を終えると、随員達を伴い、条約締結国を訪問する欧州巡歴の旅に出た。
1867(慶応3)年8/6、パリを出てスイス,オランダ,ベルギーを訪問、一旦パリに戻り、9/20にはイタリア,マルタ島、またパリに戻り、11/6にはイギリスを訪れた。
当初、昭武の警護役である水戸藩士7人も随行を主張したが、渋沢は、経費節約のため、3人ずつ交代で随行させる事を提唱、了解させた。
最初のシリーズでは、ユトレヒト,ロッテルダムを経由してオランダの首都ハーグに入った。ここではオランダ国王ウィレム3世に拝謁、議会、鉄砲製造や軍艦製造の現場,病院,ダイヤモンド加工場等を視察した。
また、オランダ留学中であった林研海(別名 紀/つな),赤松大三郎(則良),伊東玄白が彼等を迎えている。
3人は3ヶ月前にパリ万博を見学、既に昭武拝謁を済ませている。この時から渋沢と赤松の深い交流は始まったのである。
赤松則良は榎本武揚と伴に、1862年、幕府の軍艦 開陽丸発注に従ってオランダに留学、海軍で兵の運用術や砲術,造船学を学んでいた。
林と伊東は医学を学ぶため、赤松等に随行してオランダに来ていた。林の父は奥医師 林洞海である。
帰国後の1867〜68年、林の妹2人は赤松と榎本武揚と結婚する事になった。義兄弟となった訳である。
赤松はまた、造船技術を糧に静岡沼津兵学校の教授、横須賀造船所長、日本造船協会初代会長等を務めた。
磐田原では茶園開墾も行った。
磐田の邸宅跡は現在「磐田市旧赤松家記念館」となっている。
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一行が日本から持参した資金が底を突きかけた頃、渋沢は向山等と協議し、毎月の金をオランダ貿易商社から為替で受け取れるようにした。
これを現地で直接交渉してくれたのは赤松だった。
節約面では、馬車2輌の売却、現地使用人の解雇、随員も昭武と伴に食事する等の工夫を進めた。また余剰金はフランス銀行へ預金、鉄道債券と公債証書を購入して利殖もした。(*2)
1868(慶応4)年1/2、昭武達が新春の祝辞を述べている最中に、日本から驚愕の報せが入った。前年10月の大政奉還である。前述した通り、情報は2ヶ月遅れになる。
その後、現地新聞等により、王政復古の大号令が出た事、2/25の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北した事も知る。
昭武等は今後の対応に困惑する。
�У�国
1868年3/16、慶喜からの手紙が昭武の許に届き、諸々の顛末を知った。書面には、昭武は留学を続けるようにと書かれていた。
しかし、先んじて向山,日比野等外交担当者と水戸藩士の内4人は帰国。他の者は役職が変わった。渋沢は外国奉行支配調役となった。見た目は昇進だが、実際の仕事は庶務・会計で変わらない。
5/15になると、今度は新政府から昭武に帰国を命ずる手紙が届く。
渋沢はフランス政府に打診、新政府への返書作成にとりかかった。
7/20には水戸藩から昭武に帰国要請の手紙が届いた。昭武の兄で水戸藩主の慶篤が死んだため、昭武が次の藩主に指名されたのである。
9/4、一行はマルセイユを出航、11/3に横浜に到着した。時既に明治である。
渋沢は、静岡で謹慎生活を送っていた慶喜に会う。
徳川家は250万石から静岡藩70万石に格下げされている。
渋沢は静岡藩勘定組頭に命じられ、旧幕臣2万人の受け皿となるべく「静岡商法会所」を地元商人達と起ち上げた。その業務は、商品抵当の貸付金や定期当座の預り金等の金融業務、京阪地方で仕入れた米穀肥料等の藩内での売却、村への貸与等々である。
(*2)
これには銀行家のフリュリ・エラールの教えがあった。
エラールは昭武一行の世話係でもあり、幕府からは駐仏名誉総領事を任命されていた。
渋沢は会計担当だった事から、エラールと親しく交わり、金融と証券業務を短期間のうちに学んだ。
株式や公債は、非定住の外国人にも開かれているという「匿名性」、また僅かな資金でも投機は可能だという「分割性」、これら日本にはない仕組と特性は渋沢の心を強く動かした。帰国してからの渋沢の仕事は、これに裏付けられている。
また、エラールは渋沢を夜会や宴会に頻繁に連れていった。
階級や身分が違う者同士でも理解し合えるという、日本社会に決定的に欠けている「社交」の重要性を、渋沢は見出した。
彼は帰国してから、東京会館や帝国ホテル、帝国劇場、日本工業倶楽部等の社交施設を開く事に情熱を注いだが、その原点にはこうした経験があった。
渋沢が生涯をかけて実践しようとしたのは、官民格差の解消とも言える。
講座の続きは、’22年1/8と2/5。
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