6/7(金)、2019年度の浜松市賀茂真淵記念館の講座がスタートした。
今回も杉本完治の森鴎外講座があったので、申込みした。
2015年から始まった鴎外関連講座は今年度の全3回を加えると、累計で18回にもなる。
予定はともかく、今年度第1回のレポートをしておこう。
森鴎外(1862-1922)、文久に生れ、慶応、明治を生き、大正11年に没した。
関東大震災は1923(大正12)9/1に起こった。大震災で東京が焼け野原になるのを見ずに済んだのは、鴎外にとって幸いであったか。
夏目漱石(1867-1916)に比べると、鴎外は5年早く生れ、5年遅くに死んだ事になる。
鴎外作品では『舞姫』等が、今も高校教科書に掲載される。
高校生が『舞姫』読んで理解できるかというと覚束ない。
鴎外という人をもって、また『舞姫』等彼の作品をもって、教師は何を教えるのか。
それは「明治」という時代を教えるのである、明治とは何だったのか、それを教えるのである。
◆『小倉日記』
鴎外が書いた『小倉日記』(1899/明治32年6〜1902/明治35年3月)に、1900年2/28〜3/4、祖父 森白仙の墓を土山の常明寺に訪ねたくだりが書かれている。
津和野の典医だった白仙は、江戸末期、藩主が参勤交代にて江戸から郷里へ下る折り、体調が悪かったため2ヶ月程遅れて出発した。
近江国(現滋賀県)甲賀郡土山の井筒屋に宿泊した時、脚気による心筋発作にて急死した。1861(万延2)年11月の事である。
同地の常明寺に葬られていた祖父の墓を探し、供養した事が、日記に簡素に書かれている。
漱石の日記からはまだ多少感情が見られるが、鴎外の日記は、簡明にして没感情、事実が連ねられている。
土山は、先月の奈良・京都の旅の帰りに同名のSAに寄ったばかりだったので、少々驚いた。
杉本完治は23年前の1996(平成8)年、この地を実際に訪れ、鴎外の足跡を確認した由。
江戸時代にはこの宿場に40軒も旅籠があったと言われる。
鴎外は1862(文久2)年1/19に生れたため、祖父を知らない。
祖母清子は、鴎外の誕生を「祖父君の生れかはり給へるよ」と言って、大変に喜んだと言われる。(小金井喜美子著『不忘記』〜『森鴎外の系属』より)
鴎外は常明寺でまず過去帳を見せてもらった。そこに祖父の死に関わる事実に即した記述があった。
杉本も過去帳を見たい旨願い出るが、現代の寺は、個人情報に関わるとの事で見せてくれない。
歴史家にとって寺の過去帳は重要なデータが盛り込まれており、研究のためには必須の史料。個人情報の新法は、歴史家にとっては大変な悪法である、と杉本。
ここで、松本清張(1909-92)の話に飛ぶ。
清張の遺作に『二医官伝』なるものがある。月刊[文藝春秋]に連載されたもの、
鴎外についてのノンフィクションで小説ではない。没後出版された時は『両像・森鴎外』というタイトルであった。
また、清張が1953年に芥川賞を受賞したのは、短編小説『或る「小倉日記」伝』によってである。
鴎外が軍医として赴任していた3年間の日記が紛失、それを探す事に生涯を捧げた人物を主人公としている。こちらはフィクション。
清張の出生登録地は現北九州市の小倉である。そのせいもあってか、清張は鴎外に並々ならぬ興味を持っていた。
文筆家人生の最初と最後が鴎外に関する著述だったのは、象徴的である。
さて、土山辺りでは、当時土葬が一般的だった。
村人は寺周辺の地に
適宜(!)穴を掘り、そこに遺体を埋める。犬が掘り返さない程度、案外浅い穴だった。
(浜松近在でも土葬が行われていたとの伝聞がある。浜松では2m程の深い穴を掘った由。)
そこには基本的に墓を立てない。印程度のもの(それを碑と呼べるかどうか)は立てる場合もある。
「両墓制」という言葉は初めて聞いたが、遺体の埋葬場所と墓参の場所が違っているのである。
森白仙もこの方式で埋葬されたようだ。が、のち鴎外の父 静泰(または静男)がここに来て、最低の対応はしてあったらしい。
『小倉日記』の1900(明治33)年3/2の項にこうある、
「墓ありや否やを問へば、(住職は)答へて曰く。門前より一町許、田圃盡きて、將に川岸に下らんとする處に、古塋域あり。その有縁の墓碑の如きは、皆既に寺の境内に遷せり。猶無縁の古碑二三の存ぜるものありと。往いて覓むるに、幸いにして荊棘の間に存ず。表には題して森白仙源綱浄墓と曰ふ。右に文久辛酉歳十一月七日卒、左に石州津和野醫官嗣子森静泰立石と彫りたり。碑の四邊荒蕪最も甚しく、處々に人骨の暴露せるを見る。又竹竿を植てゝ、上に髑髏を懸くるものあり。」
翌日住職と相談し、「碑」を、寺の境内に移動させる、法名を「信士」から「居士」に上げる、「誦経供養」をする、等々取り決め、「金を贈り」て諸々対処してもらう事とした。
碑は本堂の左辺り、「三千佛名塔」と題する巨碑と平行する場所に置いてもらった、と書かれている。
これは、翌日の暫時の対応で、永久にそこに置く事にしたのではなかろう。
祖父が急死した宿「井筒屋」は、鴎外が土山を訪ねた時、既になくなっていた。
今は「井筒屋跡」の小さな石碑が立てられ、その脇に「森白仙終焉の地」なる木の看板が添えられている。
のちに、津和野の森家菩提寺 永明寺(ようみょうじ)に墓碑は移され、常明寺境内には代わりに供養塔が建立された。
「三千佛名塔」は、今は寺の山門の外、すぐ左に立っている。
以下、「土山学区自治振興会」なる興味深いHP。
http://tsuchiyamagakku.com/furusato06.html
現在の常明寺山門、「井筒屋跡」石碑、真新しい森家供養塔等の写真を見る事ができる。
◆鴎外とその周囲の著名人の関係
・西周
鴎外の曾祖父 森高亮(または周庵)の長男 立本(りゅうほん)は早逝した。
次男 覚馬の息子 時義は西家の養子となり西周(1829-97)を名乗る事にな.る。
森家と西家は、同じ津和野で川1本隔てて向かい側にあった。
鴎外の祖父 白仙は他家から森家の養子に入った。
実は、白仙と結婚した清子も他家からの養子である。
白仙と清子の子 峰子には、静泰(または静男)が養子として婿入りした。
鴎外(林太郎)は、静泰・峰子の長男である。
白仙と清子の結婚以降、鴎外も含め、既に大元の森家本家の血は流れていない事になる。
一方、西周は森家本家の血が流れているが、西家の養子として外に出ている。
当時は、養子縁組の何と多かった事か。
鴎外の祖父の兄の子が西周である。歳の差は33歳。
周は幼い時から『孝経』『四書』を読む等、大変な秀才であった。13歳(数え)の時、藩校で蘭学を学んだ。のち貴族院議員や元老院議員となる。
鴎外は、上京しドイツ語習得のために進文学社に通った時、東京の西周邸に寄宿し、そこから通学した。
鴎外にとっては、目上の大人物で鬱陶しい人ではあった。
1862(文久2)年、34歳時にオランダ留学。同行者に赤松則良、榎本武揚がいた。オランダでは造船学を習得。
1864年、徳川慶喜に、英国議会、三権分立について献言。
これが受け容れられていれば、日本の針路は変わっていたろう。
1868年、沼津兵学校頭取となる。
西周が、オランダ語から日本語に翻訳・造語した言葉は多数ある。
意識、科学、化学、感覚、観念、記憶、幾何学、客観、技術、経済学、形而上学、権利、芸術、後天、功利主義、主観、進化論、真理、心理学、自由、人格、政府、積極、絶対、知識、定義、哲学、否定、美学、福祉、物理学、理性、倫理学、論理学、等々。
ヨーロッパにおける形のない抽象的なものの名、その多くに日本語を造語し充てている。
彼が訳語を造った前の日本の庶民は、殆どそうしたものを必要とする事がなかったと言う事もできるだろう。
現代から言えば、これらの言葉がなくては、学問も生活ももはや成り立たない。それ程に西周の日本語訳は大きな意義を持った。
他に、福沢諭吉の翻訳語も多々ある由。
・沼津兵学校
設立 1868(明治元)年
設立者 徳川家
目的 フランス式軍隊教育
場所 沼津城内(現沼津駅南口)
頭取 西周
教授陣 乙骨太郎乙、赤松則良他
学生 田口卯吉、島田三郎、西紳六郎他
・静岡学問所
設立 1868(明治元)年
設立者 徳川家達
目的 静岡藩の教育改革
場所 四つ足御門付近(現県庁西側)
頭取 津田真道
教授陣 中村正直
・上田敏
乙骨太郎乙の弟 亘は上田孝子と結婚し、上田家に婿入り。
亘と孝子の長男が上田敏(1874/明治7-1916/大正5)である。英文学者。詩人、『海潮音』著者。
1886(明治19)年 静岡尋常中学(現静岡高校)入学。2年後輩に、新村出。
1894(明治27)年 東京大学イギリス文学科入学。
1895年 馬場孤蝶、平田禿木と樋口一葉を訪う。
1907(明治40)年 外遊へ。
その送別会(上野精養軒)には、鴎外、漱石、島村藤村、胡蝶等が出席。
上田敏の娘 瑠璃子の子 玲子(敏の孫)と、鴎外の娘 杏奴の息子 小堀鴎一郎(鴎外の孫)が結婚。
諸関係については次回に続く。
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