2/5(土)、賀茂真淵記念館講座「渋沢栄一と赤松則良」(全3回)の最終回を聴いた。
・第1回講座レポート
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981026302&owner_id=3341406
・第2回講座レポート
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981319129&owner_id=3341406
講師;3回共 磐田市歴史文書館長 木村弘之
これ迄見てきた諸々の事件や事柄について、別史料から押さえるのが第3回目の主旨である。
歴史はこのように、複数の史料を読み解いて確実なものにしていく。
◆オランダでの赤松大三郎(のちの則良)の対応
これについて『赤松則良半生談〜幕末オランダ留学の記録』を参考にウォッチする。
この書は則良の長男範一が父の言葉や記録からまとめたもの。1977年平凡社刊。
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(赤松が)アムステルダム留学中、日本からパリにやってきた山高石見守(信離のぶつら/1841-1907),渋沢栄一(1840-1931)から手紙が来た。民部公子 徳川昭武(1853-1910)一行滞欧中の資金は日本からの為替による事になっていたが、それが遅れた。一時的に資金を都合できないかという内容だった。
留学の身の一書生には甚だ縁遠い問題だったが、開陽丸建造を請け負った「和蘭貿易商会」頭取に相談すると、快諾してくれたので、その旨パリへ電報した。すぐ2人がやってきて、5万ドル借り入れが成立した。
民部公子は万博視察後欧州各国を巡遊する計画で、その費用は、江戸出発の際に小栗上野介(1827-68)と内々に取り決めていた。即ち、上海のマサジェリー会社社長クレーと合議、フランスで600万ドルの外債を募集、公子一行の経費はここから使う、と。
ところが、パリ到着後クレーに問い質すと、私(クレー)もそのつもりでいたが、急に日本の方から約が解かれたため、如何ともしがたいと言う。
そこで、オランダとイギリスの留学生頭取等に交渉してもらい、東洋銀行より5,000ポンド借り入れができた。
小栗上野介が考えた600万ドルの外債の使途は、フランスから武器・軍艦を購入し薩長に対抗する事、および幕府財政の窮乏をしのぐ事だったろう。
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幕府の勘定奉行 小栗上野介(*)が考えていたのはどういう事か?
1866(慶応2)年9月、小栗とクレーの間で資金調達プラン「組合融通方規則」が締結された。この巨額の資金は、薩長に対抗するための幕府軍備の近代化や資金繰りの改善を狙ったものだった。
幕府はこれを前提にフランスに大量の武器を発注していた。
パリ万博参加はフランスとの関係強化のためにも必要だった。
それはともかく、渋沢と赤松2人の遣り取り、そして渋沢の優れた資金繰りの発揮、これらによって当面の難局を乗り越える事ができた。
(*)小栗上野介は薩長との主戦論者で、徳川慶喜の恭順方策に反対した。
1868(慶応4)年罷免され、薩長軍に捕縛、斬首された。
◆1868(慶応4=明治元)年の動向
『赤松則良日記』(国立国会図書館憲政資料室所蔵)は、この年について、日を追って箇条書きにしている。意訳しながら拾い書きしてみると、
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1/1 (赤松は)オランダ・アムステルダム在住。12/29よりD・ヒップスの造船所で佐賀藩発注の軍艦日進号の製造監督をしている。
1/5 パリの駐仏公使 栗本安芸守より大政奉還の知らせ来る。
ハルトフに注文していた火薬製造器械、日進艦等の件につき結末をつけ、帰朝のつもり 。
2/4 日本より為替届く。9,566キマルテン受取り。
4/1 医学習得のため同時留学中の林研海が来て、帰朝の相談。
4/2 アムステルダムを発ち、4/6 パリ着。民部公子に謁見。栗本等と帰朝の相談。
帰路スイス・ロイクに寄り、大砲と小銃買い入れ。
4/26 パリ出立、4/27フランスの郵便船でマルセーユ出航。
(途中寄港地については略)
5/17 横浜入港。2〜3日前、上野で彰義隊と官軍の戦争(上野戦争)があった。そのため江戸内外は取り締まり厳重、不審者は弁解の機会も与えられずに捕縛されるとの事。しばらく横浜に逗留。
5/21 船を1艘雇い、横浜を出たが、天候わるく、江戸着は5/23となる。
5/28 海軍所に届出て、5/29 開陽艦で榎本武揚と面会。(榎本は赤松と伴にオランダ留学し、先に帰朝。)
(中略)
6/19 軍艦役に任命され、併せて300俵13人扶持となる。(幕府の任命はもはや意味をなさない。)
7/15 榎本武揚の紹介で、林洞海の娘(研海の妹)との縁談。(榎本は先にもう1人の娘と結婚しており、赤松と榎本は義兄弟となった。)
9/9 前日幕府が倒れ、軍艦役は免ぜられ、官軍の陸軍御用取扱いを申しつけられる。
9/21 10月中には東京府を引き払い、駿府へ移る用意をするよう命ぜられる。
勝海舟に面会。慶喜の駿府行きに際し、富士川に船橋(船をつないで橋の代わりにする事)を掛ける件、打ち合わせ。
(その後12/24迄、慶喜の移動関係の記述、省略。)
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◆帰国後の渋沢と赤松の関係
渋沢は赤松より遅れ、1868年11月に帰国。静岡に赴き、慶喜の命令により静岡藩勘定組頭となり、無禄にて江戸から静岡に下ってくる旧幕臣達の受け皿となる「静岡商法会所」を地元商人等と伴に起ち上げ。
同会所の仕事は、商品抵当の貸付金や定期当座の預り金等の金融業務、京阪神地方で仕入れた米穀肥料等の藩内での売却、村への貸与だった。その他、幕臣達に対し、製茶・養蚕等のための起業貸付も行った。
渋沢が洋行で得た知識が大いに活かされた。
その後、廃藩置県により静岡藩はなくなり、新政府の下、静岡県に業務引き渡し、静岡商法会所は廃止となった。
・1869(明治2)年5/5付け、渋沢→赤松宛書簡
フランス出国の際、民部公子が連発銃を持ち帰るための代金を赤松に用立ててもらった。それを返金する手立てについて。
・同年10月、新政府から渋沢への招状。
渋沢が不承不承静岡から東京へ出向くと、大蔵省租税正への任官だった。これは大隈重信の計らいだったらしい。
渋沢は民部省改正掛の掛長も兼務する事となった。
渋沢の推薦で、この掛員には旧静岡藩の人間が多く任ぜられた。赤松もその1人だった。
前掲の『赤松半生談』にもあるが、1870(明治3)年6月、民部省在任中の赤松は「通貨制度並に外債に関する」意見書を参議に提出している。これは新たな通貨制度の確立と、それに向けた外債・国際募集の提言である。
渋沢は赤松の能力を見抜き、これを活かしたのである。
・1882(明治15)年8/16付け、渋沢→赤松宛書簡
「共同運輸会社」について相談したいので来て欲しいとの内容。
明治10年代は三菱の海運事業「郵便汽船三菱会社」が独占的な仕事をしていた。
これを打破するため、渋沢,榎本等は、対抗する海運会社の設立を図り、農商務大輔であった品川弥次郎を先達として「共同運輸会社」を1882年7月に設立した。
この頃の赤松は主船局長で海軍のトップクラスにいた。
開業翌年には、渋沢が後援した「東京風帆船会社」等を吸収、更にその翌年郵便汽船三菱会社を統合、「日本郵船会社」とした。
海運の急激な発展に伴い、船舶用鋼具類(ワイヤーロープetc.)の需要が増大。
1887(明治20)年、渋沢は益田孝,浅野総一郎,渡辺温,山田昌邦等と伴に「東京製綱会社」を設立、1893年には株式会社とし、渋沢は1898(明治31)年に同社取締役会長に就任した。
渋沢は赤松を創始者の1人として加え、則良の長男範一はのちこの社長となった。
これらの例からも分かる通り、渋沢と赤松の交流は、パリで終わる事なく、生涯続いたのである。
書簡は渋沢から赤松宛のものしか残されていないが、几帳面な赤松の返信が残っていれば、江戸末から明治の歴史はもっと鮮やかに再生される事だろう。
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