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2022年01月09日22:07

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講座『渋沢栄一と赤松則良」第2回

1/8(土)、賀茂真淵記念館講座「渋沢栄一と赤松則良」(全3回)の第2回目を聴いた。
連続しているので、興味のおありの方は、以下第1回のレポートからご覧頂いたら分かりやすいと思う。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981026302&owner_id=3341406

講師は引き続き、磐田市歴史文書館長の木村弘之。

前回は、2人の簡単な人物史と、渋沢が徳川昭武のパリ万博の旅に随行した事情、赤松との出会い、その辺りの謂わば外堀をウォッチした。
今回は、渋沢がパリで赤松宛にしたためた書簡7通に何が書かれているのか、その具体的内容を見ていく。
前回のレポートにも書いているが、現在残されているのは渋沢の手紙のみで、赤松の返書は発見されていない。
几帳面な性格だった赤松が返事を書かなかった筈はない。恐らく、関東大震災で焼失してしまったのだろう。

手紙のうち1通の写真。
フォト

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   (国立国会図書館デジタルコレクションより)

最初の写真で、宛名と差出人の名前くらいは判読できるが、崩した草書の漢文調で、句読点も段落もない。
現状はまだ現代語訳した書籍も存在しない。

今回は、それらを翻刻し、一部意訳を加えたワードの紙資料を用意してくれた。

◆手紙��
渋沢篤太夫(のち栄一)がパリから、オランダ留学中の赤松大三郎(のち則良)宛てに、慶応3(1867)年7/1に出した書簡。

冒頭は以下の通り。
「御航海も御平寧御解覧後夫々御研究之御学術御勉励可被成奉遥賀候、乍去其後御国之御模様ニ而ハ何共御尽力被成方も如何哉、御同様歎息之至ニ御座候…」

読点は、木村氏等が入れてくれたのだろうが、これを読んだ上で、解釈していこうとしたら、2時間の講座では足りない。
意訳すれば、横浜からパリへの旅は無事で良かった、今は皆それぞれフランス語の勉強に努めているのはめでたいが、御国(日本)の様子は我々には何ともしようがない、溜め息が出るのみだ、というような事だろう。

そのあとに続く手紙の文面によると、今回の旅の目的には、パリ万博見学以外に、武器(小連発銃)の購入があったのが分かる。
渋沢は続けて、先方とコンタクトは済ませた、製造所からはまだ送ってはこないが、物はできたとも聞く、と。
しかし、武器を通常の日仏間の公便で送る訳にもいかない。公子(昭武公)が年内にも帰る事になれば、その船で他の荷物と一緒に運ぼうかと考えている。出来が良ければ銃の本数を増やしたい。先日預かった金では不足するかもしれないので、その時は立替を頼む、云々。

…実際に一行が日本に帰れたのは、翌年1868年11/3である。
江戸城の無血開城(1868.4/11)も戊辰戦争もあらかた済み、既に明治元年は深まっている。

◆手紙��
一行と伴にブリュッセルに来た渋沢→赤松、慶応3(1867)年9/4付け。

パリで南山公(恐らくナポレオン3世)と会ったあと、8/27にオランダに向けて出発。
オランダ国王に謁見、いろんな工場も見て回った。
オランダでは赤松の世話になった、為替の手配については感謝する。
為替を換金するには、パリの何町の誰のところへ行けばいいか教えて下さい。
プロイセンのベルリンでフランスの金が必要になる可能性もある。これも何処の何という銀行へ行けばいいか?

…まるで子供のような訊き方だが、言葉も仕組みも知らない中、公子を困らせる訳にもいかず、渋沢の必死さが伝わってくる。

◆手紙��
渋沢→赤松、慶応3(1867)年9/14付け。

先日の為替の件、感謝します。
公子はプロイセンからベルギーに行く手配だった。ブリュッセルでは公使にアポイントをとっていたが、先方の都合で前日に断られ、帰仏となった。
公子は少し休んでイタリアへ向かうつもり。その後英国へ。

◆手紙��
渋沢→赤松、慶応4(1868)年1/23付け。
先に紹介した写真の手紙はこれである。

時節の挨拶のあと、2ヶ月遅れで日本の大政奉還(1867.11/9)についての報せが届いた、とある。
5万ドル(現在の価値で言えば5億円に相当)の為替換金における赤松の骨折りに対するお礼。
日本の勘定奉行小栗上野介より、公子のパリ滞在費は月5,000ドルと案内がきた。
金は便利なパリの出張所で受け取りたい、云々。
…そのあと、為替にまつわる遣り取りについて、細々と赤松に依頼している。

御勉学のところご面倒をかけ、甚だもってお気の毒な次第ですが、宜しくお願いします。
…赤松は元々軍事や造船について学ぶため渋沢等より先にオランダ留学に来ているのだが、渋沢の後ろには公子がいるので、赤松も断りようがない。

追記の中に、大政奉還は慶喜公の深慮より出された事であって、それは挽回のための奇策である、と、渋沢及び一行の理解が書かれている。
つまり、朝廷は400年間も政治に携わってこなかったのだから、大政奉還されても実務はできなかろう。おそらくまた慶喜のところへ実務は宜しく頼むと言ってくるに違いない、と。
これは、渋沢個人の想像か、公子一行の共通認識か、はたまた慶喜自身が実際にそう思っていたのか、それは分からない。

◆手紙��
渋沢→赤松、慶応4(1868)年2/7付け。

公子の1月分5,000ドルについて、先般為替換金に出張商社に出向いたところ、即日できた。
が、フランス貨幣相場の違いとやらで受け取り額は半減してしまった。
今後の受け取り方法についてはまた相談したい。

◆手紙��
渋沢→赤松、慶応4(1868)年2/10付け。

出張商社にいくら受け取れるのかと訊いたら、それは相場次第だと言う、訳が分からない。
その日の相場で、次はオランダ貨幣で受け取る事にした。

大政奉還により、公子のお付き役で来ていた山高信離(石州)がお役御免となり、留学生徒取締役に格下げされた。
渋沢は外国奉行支配取調役に昇進したが、仕事の中身は変わらず、公子の御用務めである。

金の受取り印は山高のそれだったが、使えなくなる。しかし、印の変更について江戸へ掛け合い等していたら時間がかかってしようがないので、山高が当地にいる間はこのままとする。
商社に了解してもらっておいて下さい。
山高がいつ迄当地に滞在するか分からないという側面はありますが。

日本から先日届いた手紙によると、慶喜公は朝廷の独断で将軍職を免職された。他の在来の役職も同様に廃絶。総裁、議定、参与の三職は尾州公、松平春嶽公、島津公、山内容堂公の五藩に分け与える事となった。
これ迄公武の間を取り持ってきた二条関白は幽閉され、倒幕暴挙の様相(戊辰戦争の事だろう)を呈するようになった。在京の譜代大名等は激怒したが、どうにもならない。
慶喜公は、これを過激であるとし、これでは自身の誠意が無駄になるという旨朝廷に建白し、大坂へ引き上げる由、これは当地の新聞とも合致している。
江戸城二の丸も昨12/17に焼けたと新聞にはあるが、江戸城での暴動はなかったらしく、薩摩藩との間の焼き討ち合い等、詳しいところはまだ分からない。

…渋沢は離れたパリにいて、かなりイラついている事が文面から分かる。
一行の留学も今後どうなるか分からない。
最後に、今回は意の赴くままに書いてしまった、と反省の色を見せている。


時間が来てしまったため、手紙�Г砲弔い討麓_�2/5に回す事となった。
 
細かな事柄の記述が多いが、歴史はこうした事の積み重ねである。
 
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