84年新日本プロレス「84IWGP」5月24日大阪府立体育会館大会メインイベントでは83年2月3日、札幌中島体育センター以来1年3か月ぶりの対戦となる正規軍vs維新軍頂上対決、猪木、藤波組vsマサ齋藤、長州力組が実現しています。
前週の5月18日広島県立体育館での公式戦では猪木を後一歩のところまで追い込んで逆転の逆さ押さえ込みに敗れた長州は師匠である齋藤との連係で猪木を2人がかりの集中攻撃。
ハイジャック式パイルドライバー、交互にサソリ固めと猪木の動きを封じ、リキラリアットからフォールの体制へ。
しかしこれは猪木がカウント3寸前でクリア。3つ入ったと思った長州はレフェリーのミスター高橋の裁定に怒り、高橋にリキラリアット。20分46秒に猪木、藤波組の反則勝ちとなりました。
ちなみに、この試合が長州新日本退団前の最後の頂上対決となりましたが、約4年後Uターンして来た後の88年2月5日、後楽園ホールで同一カードが組まれており、こちらは8分53秒でノーコンテストに終わっています。
この時は長州が試合途中で負傷し戦線離脱、猪木の肉体的な衰えも目立ち、好試合とはならず、内容的にはこの日の大阪の試合が両軍のベストマッチだったと言えます。
公式戦はディック・マードックとアドリアン・アドニスのスーパー・バイオレンスコンビ対決。この年は公式戦の中の主要カードに特別懸賞金100万円が賭けられた試合が何試合かありましたが、この試合は懸賞金マッチとして行われました。
試合はアドニスがアバランシュホールドに来るところをマードックが身体を入れ換えて丸め込んでの片エビ固め。10分54秒にキャリアで一日の長があるマードックが勝利。勝ち点を17と伸ばし、懸賞金100万円をゲットしています。アドニスは11点。
5月27日日曜日の後楽園ホール、この興行は新日本プロレス興行への売り興行となりました。
ノーテレビながら好カードが実現、公式戦が3試合組まれたのは全32戦中、この日だけでした。
メインは猪木とM齋藤の一戦(懸賞金100万円争奪)。猪木vs齋藤に外れなし、という内容保証付マッチは今回も期待を裏切らず。齋藤の捻りを加えたバックドロップ4連発を凌いだ猪木が一瞬の隙をついての回転エビ固めで勝ち25点とフルマークの独走です。
セミファイナルでは2月20日のMSG定期戦で対戦したアンドレ・ザ・ジャイアントとマスクド・スーパースターが激突という後楽園ホールに集うマニアが狂喜しそうな組み合わせが実現。
迫力満点の攻防を展開、スーパースターはアンドレの巨体を得意のフライング・スリーパー(フライング・ネックブリーカードロップ)に決めて、アンドレを倒して見せ観客席からは大きなどよめきが起きましたが、アンドレは膝を痛めたのと体重増加であまり出していなかったジャイアント・プレスでスーパースターから勝利、24点とピッタリ猪木を追走。
藤波はケン・パテラを逆さ押さえ込みで破りこちらもフルマークの20点を挙げました。
84年5月27日(現地時間)、かねてより病気療養中だったWWF代表、元キャピタル・レスリング・コーポレーション代表のビンス・マクマホン・シニア(ビンセント・ジェームス・マクマホン)が食道癌の為、入院先のフロリダ州フォートローダーデールの病院で亡くなりました。享年69歳。
ビンスの父親は戦前から50年代にかけてニューヨーク地区にてプロレスとプロボクシングの興行を手掛けていたジェス・マクマホン。
ビンスは父親のプロモーター稼業を継ぎ、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースを擁し東部地区のプロレスマーケットを繁栄させました。
アメリカ修行中の馬場もニューヨーク地区でメインイベンターとして活躍。
63年にNWAを脱退しWWWF(ワールドワイド・レスリング・フェデレーション)を設立。初代王者にはロジャースをダミー・チャンプとして立てましたが同年5月17日、人間発電所ブルーノ・サンマルチノが48秒、カナディアン・バックブリーカーでロジャースを降し第2代WWWF世界ヘビー級王者になりました。
サンマルチノの衰えと共に観客動員は落ちていき、71年にはイワン・コロフをショートリリーフとしてラテンの魔豹ペドロ・モラレスが王者に。
単独での興行活動に限界を感じたビンス・シニアは脱退時喧嘩別れしていたNWA会長のサム・マソニックと和解し72年にNWAに再加盟。
この時WWWF世界ヘビー級王座から「世界」の2文字を削除しています。
NWA、AWAとの相互交流によりバラエティーに富んだレスラーのブッキングが可能になったWWWFは再び隆盛を取り戻しました。
日本との関わりは、日本プロレス時代はサンマルチノを単発でブッキングしましたが、ミスター・モト、デューク・ケオムカがブッカーをしていた日本プロレスとは本格的な交流は行わず。
74年2月にアンドレ・ザ・ジャイアントを新日本プロレスにブッキングしたのをきっかけに同年5月8日、東京体育館での第1回ワールド・リーグ戦決勝に立会人として新日本マットを視察に来日。
馬場の全日本プロレスとも73年12月にWWWF王者に返り咲いたサンマルチノ、同じくキャピタル社の共同オーナーであったゴリラ・モンスーンを通して単発交流をしましたが、ザ・ファンクスがメインブッカーとして幅を効かせていた全日本とは提携してもメリットが少ないと判断したか、外国人ルートが全日本に比べて圧倒的に弱体だった新日本をビジネスパートナーに選びました。
75年12月15日にはMSGに猪木が出場、76年6月26日、日本武道館で行われたモハメド・アリと猪木の試合の時はプロレス側のコーディネーターを勤めました。
新日本への参戦を断固として拒絶していたサンマルチノが77年4月30日にメリーランド州ボルチモアでスーパースター・ビリー・グラハムに敗れ王座転落した後はグラハム、ボブ・バックランドのWWWFヘビー級王者が新日本に登場。
また、藤波の売り出しにも全面協力し、78年1月23日にはMSGでカルロス・ホセ・エストラーダを破り藤波はWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得、ドラゴンブームを巻き起こしました。
79年3月にワイドの1文字を削除にWWFに改称、78年12月に逝去したウィリー・ギルゼンバーグ会長の後任として新間寿が会長に就任しています。
MSGシリーズ、MSGタッグ・リーグ戦、第1回のIWGPには立会人として度々新日本プロレスに来日していました。
シビアなビジネスマンと言われていますが温厚な紳士であり人格者として知られNWA、AWAとも共存共栄でアメリカのプロレスビジネスの繁栄に貢献した偉大なるプロモーターでした。
83年頃から癌に冒され徐々に表舞台からフェイドアウト、ビジネス上では不仲だった息子のビンス(ビンセント・ケネディ・マクマホン)は父ビンス・シニア、共同オーナーだったモンスーン、フィル・ザコらの所有していたキャピタル社の株式を譲渡ではなく買取し、コネチカット州スタンフォードにタイタン・スポーツ社を設立、妻のリンダと100%株主に収まりWWFの実権を握っていました。
新日本プロレスでは5月28日、浜松市体育館の試合開始前に追悼セレモニーが行われました。
前年83年5月には新日本に貢献したカナダ・トロントの大プロモーター、フランク・タニーがIWGP開幕戦に立会人として来日した後その足で夫人と出かけた香港旅行の最中に急死しており、新日本は2年連続IWGPの開催時期に協力プロモーターが亡くなるという事態が起きています。
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