本日12月30日、新日本プロレスで活躍されたキラー・カーン(本名・小澤正志)さんが12月29日午後9時頃、自ら経営する西新宿の居酒屋「カンちゃんの人情酒場」で接客中に気分が悪くなって椅子に座り、そのまま気を失ってしまい救急搬送され、午後10時4分、搬送先の病院で息を引き取りました。死因は動脈破裂、享年76歳。
木戸修さんに次いで悲しい訃報を年の瀬に来て聞くことになりました。とても残念です。ここに故人の生前の数多くの偉業を讃え、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。
カーンさんは1947年3月6日、新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)出身。高校を中退後、恵まれた体格を活かそうと大相撲春日野部屋に入門。越錦の四股名で幕下までいきましたが70年夏場所で廃業。力士時代は元関脇・栃東(元玉ノ井親方)の付き人を務めていました。
71年1月に日本プロレスに入門。藤波辰巳のすぐ下の後輩となったが年齢はカーンさんが6歳上であり、藤波を「辰っつぁん」と呼んでいたと言われます。同年6月の木戸修戦でデビュー。
73年3月、坂口征二に誘われ、木村聖裔(たかし、健吾、健悟)、大城勤(大五郎)、レフェリーの田中米太郎と共に新日本プロレスに移籍。業績不振、人材不足だった新日本プロレスは坂口らの加入で息を吹き返しました。
74年12月8日、刈谷市体育館で行われた第1回カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦、優勝決定戦で藤波に敗れ準優勝。76年8月には第2回ゴッチ杯優勝者の藤原喜明と共に西ドイツヘ短期の海外武者修行を経験。
77年12月暮れにメキシコに渡り、モンゴリアン・ギミックのテムヒン・エル・モンゴルに変身、髪を辮髪にして口髭を生やし大型ヒールとして活躍、カーンさんにモンゴリアン・ギミックを勧めたのは意外にもカール・ゴッチでした。
79年からアメリカ本土に進出、ここでキラー・カーンにリングネームを変更、本人はジンギスカンの「カン」から取ったとして「キラー・カンが正しい」と主張しています。フロリダ、ジョージアでトップヒールとして活躍。
80年年末にWWF入り。同年12月29日、ニューヨークMSGではボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦するも惜敗。この大会には日本から猪木、坂口、藤波も遠征してきており、翌81年元日に「新春プロレススペシャル」としてテレビ朝日系列で放送されました。
81年3月、「WWFビッグ・ファイト・シリーズ第1弾」に凱旋帰国し開幕戦の3月6日、勝田市(現ひたちなか市)総合体育館では猪木とタッグを組んでハルク・ホーガン&ドン・ムラコ組と対戦し反則負け。
シリーズ最終戦の3月26日、清水市(現静岡市清水区)鈴与記念体育館では猪木と組んでタイガー・ジェット・シン&上田馬之助組と対戦、僅か49秒で上田をアルゼンチン・バックブリーカーでギブアップさせ、全米トップヒールの実力を見せつけました。
アメリカでシンディ夫人と結婚していたカーンさんはアメリカに戻り、5月2日、ニューヨーク州ロチェスターでのアンドレ・ザ・ジャイアント戦でアンドレの右足を骨折させたとして一躍世界的なメインイベンターへの道を進むことになります。実際は体重増加により、通常のロープワークでバランスを崩してヒビが入ったものでしたが、カーンさんがアンドレの異変に気づいて機転を利かせ、ダイビング・ダブル・ニードロップを放って、ニードロップで骨折したように見せて試合を終わらせたものでした。
その後新日本プロレスのリングにスポットで帰国参戦していましたが、82年4月1日、蔵前国技館で行われた「第5回MSGシリーズ」優勝決定戦では右膝負傷の為、当日欠場となった猪木に代わり、リーグ戦3位だったカーンさんが1位のアンドレと対戦、大「オザワ・コール」の中、大健闘し敗れましたが準優勝を果たしています。
同年12月10日、蔵前国技館で行われた「第3回MSGタッグ・リーグ戦」ではタイガー戸口と組んで優勝決定戦に進出、猪木&ホーガン組と対戦し敗れ準優勝。
翌83年1月からはマサ齊藤、長州力、小林邦昭と革命軍として活動、新日本プロレス本隊と対立構造を展開。3月からはIWGPアジア・ゾーン予選を勝ち抜いて猪木と共に、アジア代表として5月のIWGP決勝リーグ戦にエントリーしました。
革命軍は国際軍団から抜けたアニマル浜口、寺西勇に凱旋帰国した谷津嘉章が加わり維新軍に名を変えて勢力拡大。84年9月、新日本プロレスの営業部長だった大塚直樹が退職して設立した新日本プロレス興行(ジャパン・プロレス)に長州、浜口、谷津、小林邦、寺西らと共に移籍し85年1月より全日本プロレスのリングに参戦。
全日本プロレスではスケールの大きなラフファイトがマッチし、ジャパン勢の中でもファイトスタイルは全日向き。85年3月14日、愛知県体育館では長州と組んで初来日のアニマル&ホークのザ・ロード・ウォリアーズのAWA世界タッグ王座に挑戦し両チームリングアウトの引き分け、4月12日には鳥栖市民体育館で天龍源一郎のUNヘビー級王座に挑戦して反則負け。
9月14日の松本市総合体育館では谷津と組んで鶴田&天龍組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦しリングアウト負けとなりました。
86年にはジャパンのエースである長州に反逆するというアングルが組まれ、スーパー・ストロング・マシンやテキサスでは懇意の仲だったテリー・ゴディ、ヒットマンとして活躍していた阿修羅・原らと共闘、7月31日、両国国技館では長州と一騎討ちを行い、バックドロップ2連発、リキラリアット2連発でフォール負け。
87年のジャパンプロレス分裂騒動でプロレスに嫌気が差し、4月2日、大阪府立体育会館で行われた全日本プロレスの興行に1試合だけ参加、原と組んで、ザ・グレート・カブキ&大熊元司組と対戦したのが日本ラストマッチとなり、帰国後、WWFのリングに再登場しました。
ホーガンのライバルとしてのストーリーラインが組まれていましたが、11月16日、ニュージャージーでのジョージ・スチール戦を最後にプロレス界を引退。
プロレス引退後は日本に戻り、新宿区中井で「スナック カンちゃんの店」をオープン、92年に亡くなった歌手の尾崎豊がカーンさんの作ったカレーライスを愛していたというエピソードは有名でした。
98年4月4日、東京ドームで行われた猪木の引退試合後のセレモニーには姿を現しています。
その後も足立区綾瀬、新宿区歌舞伎町と移転を繰り返しながらも飲食業を続けました。また、現役時代から歌の上手さでは定評があり、よく大好きだった三橋美智也の歌を歌っていましたが、2005年に「ふるさと真っ赤っか」でCDデビュー、演歌歌手としても活躍しました。
転倒事故で頚椎を損傷したり、S字結腸癌を患いながらも元プロレスラーならではのの不屈の精神力で不死鳥の如くカムバックを果たし、途中閉店もありましたが、店を継続し続けました。
一方で金にまつわる話で猪木、坂口、長州、永源遙らの悪口をYouTubeなどで話し、晩節を汚した部分があったことは否定できません。
それはさておき、全日本プロレス出身者は短命で亡くなる方が多いですが、新日本プロレス出身者は長生きという認識でおりましたがストロング小林さん、アントニオ猪木さん、木戸修さん、今回のカーンさんと、この2年間で4人もの名レスラーが旅立って行かれました…。
改めてカーンさんの死に哀悼の意を現したいと思います。
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